詩篇第一巻 5篇
『絶えず祈る』
フルートの優しい音に合わせて、ダビデ王の切ない祈り声が聞こえて来るような気がする。
「私のことばに耳を傾けてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫ぶ声を耳に留めてください。私の王、私の神、私はあなたに祈っています。主よ、朝焼けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたの御前に備えをし、仰ぎ望みます。」(1〜3)
3節の「仰ぎ望む」という言葉に目が留まった。聞きなれない言葉である。この節を口語訳や新共同訳で読んでみたが、似たような訳をしていたため、英語訳でも調べてみた。結果、「仰ぎ望む」とは、畏敬の念をもって、期待して待つ、ということらしい。契約の神である主は、必ず約束を守られるお方である。ダビデ王は、主をそのようなお方として信じているからこそ、朝ごとに自らをいけにえの備え物として捧げ、主を仰ぎ望まれたのだ。
祈りを捧げる時、自分はダビデ王のような気持ちをもって、祈っていただろうかと考える。どちらかと言うと、甘えてわがままな祈りばかりを捧げてしまう傾向にあったのではと思う。全知全能である神にすべてを委ねます、と祈りながらも、不安になればまた同じ祈りを繰り返している自分がいる。
第一テサロニケ5:17では、絶えず祈ることを勧めている。日々の生活の中で絶えず神を意識して、すべての悩みや不安を神の御座に持っていくことは祈りである。それは声を出す祈りであったり、沈黙の祈りであったり、またダビデ王もように歌の祈りであったりもするだろう。大切なのは、神の義による解決を求めることにある。
「あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください」(8)
祈り:
愛する天のお父さま。いつも私の祈りに耳を傾けてくださり、ありがとうございます。この世と調子を合わせてはいけないと知っていながらも、つい不安になって愚痴をこぼしたり、人と競ったり、不平を言ってしまう自分がいます。そんな時、どうか私もダビデ王のように「あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください」と祈れますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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