詩篇第一巻 28編
携え導く神
詩篇を読み深める中で、私はダビデが嫌いになった、そしてその祈りに私を見た。
「彼らの行いとその悪にしたがって 彼らに報いてください。」(4節)
詩篇の作者が神を賛美しているときに敵への報復を願うのは、彼が霊的に成熟していない事の現れ。主はあえて、このような表現を旧約聖書の記述の中に残し、私たちに問いかける。
旧約聖書時代のこのような作者の思いはまるで反面教師。新約聖書時代に生きる私たちに主から課せられた生き方は、敵を愛し迫害するものを祝福し、彼らの為に祈ること。呪いの言葉ではない。
イエス様がこうおしゃっている。
「あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」(マタイ12:37)
パウロは弟子にこう語る。
「そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこでも、きよい手を上げて祈りなさい。」(テモテ第一 2:8)
私が大好きなオードリー・ヘプバーンもこう語っていた。
「美しい瞳であるためには、他人の良いところを探しましょう。
美しい唇であるためには、美しい言葉を使いましょう。」
私たちを奉仕者として召してくださった神様は、私たちの成長の為に苦難の中を通す。
そして、その苦難の時にどのような心であるかも主は見てくださっている。
ダビデのように呪いの言葉を神さまに訴えるのか。それとも謙遜にイエス様のように、敵の為に祈るのか。新約聖書時代に生まれた私たちがすべきことは歴然である。
「ほむべきかな 主。 主は私の願いの声を聞かれた。」(6節)
ヘブル語にしかない予言過去と呼ばれる過去完了形のこの言葉。未来の事を主を唯一の神として、彼が祝福してくれると信じる心によって私たちは励まされ、困難の中でも前に進んで行ける。恨み節ばかりのこの詩篇ではあるが、そんな中にも主の光は輝いている。主は我らを携(たずさ)え導いてくださる神。ヘブル語では「ナーサー」と言い、懐に抱える、許す、と言う意味もあるそうだ。敵に恨みを言いたくなった時は、敵に向かっではなく、主の懐で思いを吐露したい。なぜなら、主が全て受け止めてくれるから。これほどの恵みがあるだろうか。
そして困難の中にあっても主が未来にしてくださるであろう祝福を、すでに受けているかの如く心を主に向けて歩みたい。
「主は私の力 私の盾。
私の心は主に拠り頼み 私は助けられた。
私の心は喜び踊り 私は歌をもって主に感謝しよう。」(7節)
天の父なる神様。今日も貴方によって平安を与えられた事を感謝いたします。世の行いに流されるのではなく、イエス様を師匠として、兄として歩める恵みをありがとうございます。貴方の御計画の中で、どうぞカケのある私を用いてください。あなたにいつも携えられている事を喜び歩みたいです。アーメン。
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