詩篇第一巻 27篇
『One thing』
あなたは「一つのことを神に願え。」と問われたら、何を願うだろうか?
あの栄華を極めたソロモンも、そういえば「あなたに何を与えようか。願え。」(歴代誌第二1:7)との神の御声を聞き、彼は富でも財でも名誉でもないものを願った。それは、王として民を正しく導くための知恵と知識であり、これを神様は御心にかなう願いとして、受け入れられたのだった。すごいと思う。
今日開いている27編は、そのソロモンの父ダビデによる賛歌だ。状況的にはその歌から緊迫さを伺い知る。しかし同時に、その状況に打ちのめされない確信というのか、気迫をも伝わってくるから不思議だ。
「たとえ 私に対して陣営が張られても 私の心は恐れない。
たとえ 私に対して戦いが起こっても それにも私は動じない。」3節
普通であれば、状況がぐらつけば、私自身もぐらつくものだと思う。私という存在はすぐに状況に呑み込まれて支配されてしまう。だから、もし3節にあるような、私に対して陣営が張られたり、戦いが起こったりなんかしたら、慌てふためいて、早くこの状況をどうにかしてほしい、ということばかり考えるだろう。
しかし、この信仰者は違う。この状況を見ないようにしているだけなのか、気にしていないだけなのか、この状況を超えた存在へと必死に目を注ぎ続ける。
4節のことばに注目したい。
「一つのことを私は願った。それを私は求めている。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。
主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」
彼にとってのOne thing、ただ一つの願いは、状況云々ではなく「主の家」という主の臨在に憩うことだった。彼は、身体的にも心的にも一番の安全な場所を知っていた。揺れる状況、揺れる自分を、全く微動だにしない揺れないお方、神の臨在に置きたくて、そのOne thingを願い求めたのだ。
これこそ、私たちに与えられている信仰そのものが働きかけてくれる力だと思う。
良い状況でも悪い状況でも、変わらない主の麗しさに目を注ぎ、その臨在の中で思いに耽ることのできるその時間。日ごとのディボーションもそうだ。この時ばかり麗しい主にある臨在が、私を取り巻く状況から解放してくれる。そして、力を与えてくれる。励ましや慰めを与えてくれる。
私も、このOne thingを一生、願い求めていきたい。
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