詩篇第一巻 25章
25章で私の心をとらえた聖句は、
7節の最初の二行目の
「私の若いころの罪や背きを 思い起こさないでください。」というところである。
この聖句に関連することがイザヤ書43章25節で語られている。
「わたし、このわたしは、わたし自身のために あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」 イザヤ書 43:25
私が、洗礼を受ける決心をした時に触れられたみことばである。私の罪をぬぐいさってくださるばかりでなく、私の罪をも思い出さない。何という神様の愛でしょうか。このみことばは、私にとても強い衝撃で私の心をとらえた。主の慈しみ深い大きな愛に触れられた瞬間だった。イエス様の十字架に触れさせてもらった気持ちで迷わずに洗礼にあずからせていただけたのが、まるで昨日のように思い起こされた。主の憐れみに満ちた愛に心から感謝せずにはおられない。その心は今もこれからもずっと変わることなく、私の心の中で永遠に生き続けている。
「主よ あなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えて下さい。」 4節
「あなたの真理に私を導き 教えてください。あなたこそ 私の救いの神
私は あなたを一日中待ち望みます。」 5節
ダビデは、どんな時でも自分の進む道を主に問い、主に教えられて歩んできた。そのことを通して神のみこころを学ぶことができたのである。いつも敵におわれ安住の地で眠ることも思うようにできなかった時にも、ダビデは、主こそ救いの神であると信頼していたから、主が真理に導いてくださると確信していたから、忍耐をもって主を一日中待ち望むことができたのである。主のみこころを知るということは、自分がどうしたいかということを神の前に明け渡すことではないだろうか。
「主を恐れる人は だれか。 主はその人に選ぶべき道をお教えになる。」 12節
「主は ご自分を恐れる者と親しく交わり その契約を彼らにお知らせになる。」14節
神様は、絶えず「主を恐れる者」に目を留められる。つまり、素直に神以外に助けはないと神に寄りすがっていく人には正しい道をお教えになられ、又、その人と神の契約に立つことができるということである。主を恐れて、忍耐をもって祈り、主を仰ぎ見る者になって、主の救いを受けることができるように歩んでいくことができるようになりたい。
祈り
愛する天の父なる神様。あなたの私達への慈しみ深い愛に心から感謝します。
そして、きょうは25編からたくさんのみことばにふれさせていただきありがとうございます。
神を恐れて、神を見上げていくことができますように教え、導いてください。
感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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