詩篇第一巻 24篇
『栄光の王 万軍の主 ジーザス』
24篇の詩篇の構成力はシビれる、凄すぎる!
「地とそこにみちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの。」(1節)
あー素敵すぎる、なんたるダイナミズム!
出だし1〜2節は、大いなる神さまのスケール感。太く揺るぎないパイプが神さまの磁場にアジャストして、たった2節だけで神さまが支配する全世界を讃えている。私はこの、短くも美しい御ことばに磁石のようにぐいぐい惹きつけられる。
教会で使っている聖書は、「主が 海に地の基を据え 川の上に それを堅く立てら
れたからだ。」(2節)とあるが、ヘブライ語に忠実な別の聖書では「主がそれを海
の上に据え、潮の流れの上に築いたから。」と日本語訳されている。”川”も流れだ
が、海の”潮の流れ”の方がすんなり分かりやすい。
3〜5節は一転して語りかけ、すぐそばで対話をするような近しさだ。
「手がきよく 心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人。」(4節)、”手がきよく” と聞いただけで、自分の行動の清くないところが思い浮かぶ。”むなしいもの” に向く後ろめたい自分がいる。でも私の欠けを、素直にうなづかせてくれやわらかな御ことばでもある。
「あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである」(レビ11:45)、ということなのだろう。アーメン、そうありたいです。クリスチャンとして清くありたい。でもこの24篇の続きは、清さだけで良しとはしない。
「これこそヤコブの一族。神を求める者たち あなたの御顔を慕い求める人々である。」(6節)、究極の目標は清さではないですよ、主を慕い求めなさい、神さまの愛に応えて神を愛し、隣人を愛しなさい、といざなってくれる。愛こそ至高、そうです神さま!
そして後半7〜10節はまたガラリ、重厚な凱旋歌だ。「門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。」、勝利の賛美を高らかにくり返しながら、栄光の行進をするようだ。
シスターの友人は、こういう詩篇の部分のことを、カソリックのミサでは、2つの聖歌隊が交互に歌い合う交唱歌 ”アンティフォナ” のパートだと教えてくれた。
私は少々自己流で、ラッパーのリリックみたいに、韻を強めながらリズミカルに大声で口ずさむ。繰り返しているうちに高揚してきて、なんとも気持ちが良い。自分の信仰をチャージさせてくれる力がある。賛美は全身のエクササイズ、クレンズだと体感できる。
「栄光の王が入って来られる。」(9節)とは、イエスさまの再臨のことのようにも感じる。「栄光の王 それはだれか」イエーイ、イエスさま!「万軍の主 この方こそ栄光の王。」ハレルヤ、イエスさま! ”セラ” のところを ”ジーザス” に即興して愛唱する。
栄光の王、万軍の主であられるイエスさまを祈ります。詩篇24の御ことばを何度も愛唱しました。詩篇の御ことばが、自分の祈りのように重なるまで、これからも何度でも愛唱したいと強く思いました。そう導いてくださったのは、イエスさまです。ありがとうございます。イエスさまの恵みを実感できることで、喜びと幸せを感じることができます。感謝します。
イエスキリストの御名でお祈りします。アーメン
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