詩篇第一巻 17篇
『正しい訴え=信仰告白』
「主よ 聞いてください 正しい訴えを」と、始まる17篇。
この出だしの理解で、大きな間違いをするところだった。
”正しい訴え”を、“ 私は正しい者として訴えをします” とか、”私の訴えは正しいです” と解釈すると、17篇の祈りは、自分を正当化するだけの祈りになってしまう。違うな、そんなの詩篇に採用されるはずないし‥‥。
”正しい” には欄外に注釈があり、詩9:4に飛んでみる。
「あなたが私の正しい訴えを聞かれるからです。義の審判者として王座についておられるからです。」
詩人は神さまを崇めている。この詩九4の” 訴え” にも注釈があり、詩140:12にまた飛んでみる。
「私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し 貧しい者のために さばきを行われることを。」
詩人は神さまと深く交わっている。言葉を変えながら、神さまへの信頼を語っている。
「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」(イザヤ43:1)
神さまの召し、恵みに応えて、神さまとの関係が ” 正しい ”、両者の関係性の正しさを指していたのだ。
ということは、「主よ 聞いてください 正しい訴えを」は、「主よ聞いてください 私の信仰告白を」という意味ではないか。正しい訴え=信仰告白!? 神さまの真実の正しさに守られて、私は主をとことん求めます、という呼びかけ。
神さま、それにしても詩人の祈りは凄いです。誠心誠意、神さまに迫り、訴え、大胆に求めています。夜を徹して祈ってもいるようです。
「瞳のように私を守り」(8節)、これは単なるレトリックではないと受け取ります。繊細で傷つきやすい眼を、わずかな異物にも反応する眼を、瞬間的にまぶたが閉じて守る。涙腺からわずかに涙を出して、いつも乾燥から眼を守ってくれる。そんな瞳のように絶妙に、この上なく周到に守ってくださる神さま。その恵みを、身体感覚としてビシビシ感じて賛美する詩人。
神さま、私の祈りは生ぬるいです。でも、詩篇に耳を傾けているとお祈りをしたいなあと思う時が増えます。感謝です。迷って聞く祈り、賛美する祈り、呼び求める祈り‥‥正直で大胆な祈りがもっとできますよう導いてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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