2021年9月17日 ディボーション

詩篇第一巻 16篇


 一見すると人生に必要なさそうなものが、実は人の心を支えている。

 歴史的、時間的な積み重ねを経ながら、いろんな世代にわたって世界中で読み継がれてきた聖書もそのひとつだと思う。

 聖書の物語は、ほのぼのと人情味あふれるテイストの暖色一辺倒ではない。人間の残酷さや、冷徹で血生臭い事件が盛り込まれている。だからこそ、人々の心を惹きつけるのかもしれない。

 たとえ本というものが風化して消えていっても、耳の奥で御言葉が響き続けるだろう。「普遍的なモノ」は、目には見えなくても、心の真ん中に生き残っていくだろう。


 時代が変わっても、国や文化が違っても、絶対に変わることのない「本当のこと」を私は知りたくて、ずっと探し求めてきた。

 半世紀かかってようやく「真理」を見つけたとき、真理である神様の前に、ありのままの自分をさらけ出すことができた。


私はいつも 主を前にしています。

主が私の右におられるので

私は揺るがされることがありません。

(8節)


 この篇の作者ダビデもきっと、波乱万丈の人生経験を通して、神様の恵みと愛にたどり着いたのだろうと思う。

 ダビデは、イエスラエルの代表戦士として自ら名乗りをあげ、勇敢に戦った。初代の王サウルから憎まれ、命を狙われていたにもかかわらず、サウルを殺そうとはしなかった。

 サウルの死後、ダビデは王になり、神様から与えられた賜物を発揮しながら強国を築きあげた。しかし、ダビデ王は大きな罪を犯してしまった。自分の部下ウリヤの妻と肉体関係をもってしまったダビデは、暗躍の結果、戦死に見せかけてウリヤを殺した。

 良いとき悪いときを経験していく中でダビデは、主だけを信頼するという一貫性をもち、本当の信仰者になれたのだろう。

 そんなダビデがこの詩篇を書いた。感慨深いものがある。


 私は日本で15年間ほど幼稚園の先生をしていた。実家の父の事業(教育関連ビジネスと学校経営)を、長女である私が将来的に引き継ぐことになっていたので、現場で修行する必要があった。

 しかし、いろんなことに揺るがされて軸がブレまくる自分自身に嫌気がさし、園児たちに悪い影響を与えているような気がして投げ出した。子どもたちのことよりも自分のことを優先させているような罪悪感をもち、私は教育の場に向かない人間だと思った。

 後継ぎ問題から離れたくてハワイに逃避したが、そろそろ避けられないときがきた。


 ダビデの言葉どおり、いつも主を前にして、決して揺るがされない、威風堂々とした自分になれるのだろうか。まったく自信がない。

 ダビデの声が聞こえてきそうだ。

 隣にいつも神様がいてくださる。だから、きっと大丈夫!


祈り:

 愛する天のお父様。今日もあなたの守りと支えに感謝します。どんなことがあっても動じない自分でいられますよう私を強めてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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