詩篇第一巻 12篇
『ことばは神であった』
ダビデは信頼していた家臣たちに裏切られ、周りに信頼できる人がいなくなったことを嘆く。へつらいの唇と、二心で話す人たちから「主よ、お救いください」と祈る。彼らは自らの言葉によって何事でも成し遂げられるのだと豪語する。しかしダビデは、主のことばこそが、混じり気のない、完璧に聖なることばであると歌う。
最近、ある進学塾の数学講師が、そこに参加する高校生たちに向かって叱責する動画を見た。その講師はクラスを休む生徒に対して、自分で休んだ分を自習して(自分で自分のケツを拭く、と表現)、次回のクラスに参加するのでなければ、クラスに来るなと豪語した。また、クラスに遅れてくる者に対しても、遅れるなら来るな、と豪語した。
遅れたことによって、クラス開始直後の数分の間に学ぶ数式を学ぶことができず、結果、そのクラスにいても何も学べず、クラスにいるだけ無駄だ、というのである。この講師の言い分はわかる。しかし問題なのは、休んだり、遅れてきたりする生徒を、名前ではなく「めがねの女」とか「おまえ」といった形容詞で呼び、そしてその生徒を指で指して「お前は来るな」、「お前は嫌いだ」と発したことにある。私はこの動画に対して、どのようなコメントが寄せられているのだろう、と思った。見てみると、これが意外なことに好評価なコメントが多くて、驚いた。そのコメントのほとんどが、この数学講師の叱責を「生徒たちのことを真剣に考えてくれている」と受け止めていた。それらのコメントに、不思議な感覚のズレを感じるのは、私だけだろうか。
まさに人は、言葉を与えられて以降、その言葉に支配されて生きている。親の言葉、教師の言葉、上司の言葉、友人の言葉と、それらに励まされることもあれば、傷つくこともある。故に、人の言葉ではなく、神のことばに支配されて生きたいと願う。
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」
(ヨハネ1:1)。
祈り:
神のみことばに支配されますように。自分の言葉ではなく、神のみことばを、この舌にのせることができますように。人の言葉ではなく、みことばを聞くことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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