2021年9月13日 ディボーション

詩篇第一巻 12篇


『ことばは神であった』


 ダビデは信頼していた家臣たちに裏切られ、周りに信頼できる人がいなくなったことを嘆く。へつらいの唇と、二心で話す人たちから「主よ、お救いください」と祈る。彼らは自らの言葉によって何事でも成し遂げられるのだと豪語する。しかしダビデは、主のことばこそが、混じり気のない、完璧に聖なることばであると歌う。


 最近、ある進学塾の数学講師が、そこに参加する高校生たちに向かって叱責する動画を見た。その講師はクラスを休む生徒に対して、自分で休んだ分を自習して(自分で自分のケツを拭く、と表現)、次回のクラスに参加するのでなければ、クラスに来るなと豪語した。また、クラスに遅れてくる者に対しても、遅れるなら来るな、と豪語した。

 遅れたことによって、クラス開始直後の数分の間に学ぶ数式を学ぶことができず、結果、そのクラスにいても何も学べず、クラスにいるだけ無駄だ、というのである。この講師の言い分はわかる。しかし問題なのは、休んだり、遅れてきたりする生徒を、名前ではなく「めがねの女」とか「おまえ」といった形容詞で呼び、そしてその生徒を指で指して「お前は来るな」、「お前は嫌いだ」と発したことにある。私はこの動画に対して、どのようなコメントが寄せられているのだろう、と思った。見てみると、これが意外なことに好評価なコメントが多くて、驚いた。そのコメントのほとんどが、この数学講師の叱責を「生徒たちのことを真剣に考えてくれている」と受け止めていた。それらのコメントに、不思議な感覚のズレを感じるのは、私だけだろうか。

 まさに人は、言葉を与えられて以降、その言葉に支配されて生きている。親の言葉、教師の言葉、上司の言葉、友人の言葉と、それらに励まされることもあれば、傷つくこともある。故に、人の言葉ではなく、神のことばに支配されて生きたいと願う。


 「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」

(ヨハネ1:1)。


祈り:

 神のみことばに支配されますように。自分の言葉ではなく、神のみことばを、この舌にのせることができますように。人の言葉ではなく、みことばを聞くことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


閲覧数:19回

最新記事

すべて表示

マルコの福音書 7章 『外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。』 6章から8章にかけて、イエスさまの有名なパンの御わざが2回出てくる。1回目は男だけで5000人もの人にパンと魚を分け与え、2回目は4000人の人をパンと小魚で満腹にしたという物語だ。聖餐式の原型なのだろうか、神さまの惜しみない恵みを目の当たりにして、にわかに信じられず、右往左往しながらフリーズしてしまう弟子たち。さ

詩篇第五巻 150篇 『十字架は賛美の力の源泉』 とうとうグランド・フィナーレである。角笛と琴と竪琴と、タンバリンとシンバルのあらゆる楽器のフルオーケストラで、ハレル・ヤハ=神をほめたたえよ、と高らかな賛美をいざなう。 大げさな表現は微塵もないのに、ことばの一字一句が気高く揺るぎない。それは神さまが絶対だから。聖書のみことばには霊的な力があることを、ビシビシ教えてくれる詩篇だ。 「御力の大空で 神

詩篇第五巻 149篇 私の夫の両親は、娘と息子たちが幼い頃に描いたパパとママの似顔絵や、想い出の写真の数々を額装し、部屋中に飾っていた。 夫が6歳の時に初めて作った小さな折り鶴は、リビングルームのガラス戸棚の中にちゃんと居場所を与えられ、誇らしげに微笑み、喜んでいるように見えた。 色褪せたそれら一つ一つを見つめる両親の目は、とても優しかった。 その中に、私たち夫婦の写真が加わったのを見た時、胸が熱