詩篇第一巻 10篇
ハワイには、日本のようなはっきりとした四季の変化がない。とは言え、よく観察してみると、空に浮かぶ雲の雰囲気や、植物の葉の色合い、夕暮れ時に窓から斜めに差し込む陽射しの加減が、季節によって微妙に違うことに気づかされる。それでもやはり、日本の春夏秋冬の美しさにはかなわない。
巡りゆく季節は、私たちの人生そのものだと思う。
春には新しい命が芽吹く。あたたかい光に新緑が包まれ、桜の花びらが舞い上がる。日本では、卒業式や入学式が開かれ、別れと出会いの季節でもある。
ギラギラした太陽が照りつける夏は、活力に満ちあふれ躍動感いっぱいだが、朝から蝉がシャンシャン鳴き、入道雲や夕立が激しく、台風もやってきて、何となく落ちつかない。
残暑が去り、空が高くなり、日ごとに秋が深まっていく。見事なまでの紅葉に出会う。実りの秋には多くの収穫があり、旬の味覚を堪能できる。
そして、樹木はすっかり葉を落とし、冷たく寒い冬の時代が到来する。
命が尽きること、この世界から自分が消えるということは、これまで体験したことのないものだから、想像することが難しい。人間は、想像できないことを恐怖に感じる。
けれども、私たちクリスチャンは怖がらなくていい。なぜなら、肉体が死んだ後、自分がどこに行くかを知っているのだから。
そこは、光と愛だけが降りそそぎ、人が人を虐げることが一切ない世界。神様は、闇のない国に私たちを引き上げてくださる。しかし、神様をあざむく人間は、根こそぎ滅ぼされる。
詩篇9篇の中に、以下のようなくだりがある。
国々は自分で作った穴に陥り
自分で隠した網に足をとられる。
主はご自身を知らしめ さばきを行われた。
悪しき者は自分の手で作った罠にかかった。
(9:15〜16)
「墓穴を掘る」という言葉があるが、自分の手によって自分自身を破滅に追い込む原因を作り、どんどん不幸になっていく人がいる。
たとえば、本当は自分の心が満たされていないのに、その満たされない原因となっている真実から目をそらす。どんなに辛くても、その問題と向き合い、もがき苦しむことによって解決できるのに、変なプライドが邪魔をして、楽な方へと逃げてしまう。
そして、一時的な満足感を得ようとして、何かに依存したり、誰かに寄りかかったり、自分の不満に他人を巻き込んだりしながら、幻想や妄想の世界に浸り続ける。
それだけでは収まらず、頼まれてもいないのに他者の悩みや人生に首を突っ込む。自分を救うことが先決なのに、他人を救いたがる。メシアコンプレックス。親切という名のお節介。
誰かを救おうとすることで、自分の劣等感や虚無感を紛らわそうとする偽善の行いは、相手への思いやり・愛ではなく、ただの自己満足にすぎない。
だから、手出し口出しされる側も、何となく違和感を持ち、お互いにギクシャクする。本当の自分を隠し、本音でぶつからないから、心が触れ合わずドンドン孤独になっていく。まさに、以前の私の生き方そのものだ。
こういう生き方の行き着く先は、地獄。
自分で掘った穴に自分が落ちる、自分で仕掛けた罠に自分がかかってしまう。そうなってしまう前に、本当の自分に気づく機会や方向転換するチャンスを、神様は与えてくださる。
にもかかわらず、最後の最後まで、他人の悪口を言って相手を裁き続ける人間を、主は、根こそぎ滅ぼし消し去られる。天の国には入れてもらえない。
人生の終末期、冬の季節が終わる時、本物のクリスチャンは神様に引き上げられて天国に入って行く。
そのときの感じは、北風にさらされて体の芯まで冷え切った身体を、あったかいお風呂に沈めた瞬間じわっ〜と溶けていくような、最高に気持ちいいものだったらいいなと思う。
寒くて冷たい時間を経験してはじめて、あたたかいものに包まれる喜びを感じることができる。
地上での命を終え、天国で生まれ変わり、もう一度、春の到来を迎え、神様と共に、そして神の家族と一緒に、光の中で永遠に生きつづけよう。
祈り:
愛する天のお父様。本当の自分に気づかせてくださったこと、生きる喜びを与えてくださったことに感謝します。神様から離れることなく、どんな時でもあなたを求める素直な自分でいられますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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