マタイ4章
イエス様は悪魔の試みを3回受けられるが3回ともその試みに打ち勝った。
悪魔に対抗した時に用いられたことは、聖書のみことばだった。イエス様が 「書いてある。」ということばを4節、6節、7節、10節で4度も使われているのを調べてみたら、この「書いてある。」 ということばは、「わたしはこのみことばの通りに生きる」という決意を表していることらしい。
神の子であるイエス様を試みるなんて悪魔も相当なものである。ヨブ記でも悪魔は、神に対抗していくところがあったけど、要するに悪魔は常に私達の周りで動いていていつでもスキあらばおそってくるということだろう。特に洗礼を受けたばかりの人々に対して誘惑してくる。
又、神様の為の働きをしようとする時には何らかの形で邪魔をする。この世の悪魔との闘いは避けることのできないことだと神様も語っておられた。つまり信仰の戦いを絶えず続けていくことではないだろうか。その為には、やはり、イエス様が語られたように 「みことばの通りに生きること」である。
エペソ6:11 「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に つけなさい。」
エペソ6:17 「救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」
イエス様の宣教がカぺナウムで開始した。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。それに先立って、イエス様は4人の弟子達を選ばれた。4人とも漁師であった。
イエス様は、2人の兄弟、ペテロとアンデレに言われた。
19節「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。そして、もう2人の兄弟、ヤコブとヨハネを呼んだ。彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。
ここの、舟と父親を残してイエスに従うことができたのは彼らの信仰はすでに神への信頼があったからできたのではないだろうか。自分だったらそのようなことができるだろうかと考えさせられるところである。そうなれたらいいなと思った。イエス様に従うということは、何を一番に優先していくのかということが示された。
この宣教でイエス様は、ガリラヤ全域を巡って、教えて、宣べ伝えて、病を癒やされた。
イエス様の宣教の働きが開始する前に、イエス様はヨハネによって洗礼を受けなくてもいいことなのに、あえてご自身から受けられた。これはキリストに従う者達への模範となるためだった。それから悪魔の試みにあわれ勝利をえられて、そして4人の弟子達を招いて宣教の道の準備へと進んだのである。
祈り
天の父なる神様。今日のみことばを心から感謝します。
ペテロ、アンドレ、ヤコブ、ヨハネのようにすぐに、すべてを捨ててあなたに従っていくことができるように、どうぞ私の信仰を強めて下さい。あなたのみことばに日々聞き従っていくことができますように導いて下さい。
感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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