2021年8月7日 ディボーション

マタイの福音書3章


『これは私の愛する子』


●学んだこと:

「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」(3:15)

 イエスさまがおよそ30歳で、公生涯を始められた、特筆すべき第一声である。

 その前にバプテスマのヨハネが現れ、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とマウントしたのとは対照的に、おだやかで柔らかで、控えめで、なんとも謙遜な御言葉だ。

 ヨハネが言うように、イエスさまが水のバプテスマを受ける必要はさらさらない。イエスさまは100%義の方だから、罪の告白や回心をするための洗礼を受ける理由は一つもないのだ。なのに主の御心を成就するために、ご自身を罪人と一体化したしるしとして、水のバプテスマが必要なのだとヨハネに語る。いや、語るというより、そうさせてほしいと低く懇願する。

 公生涯の第一声からへり下っておられるイエスさま。


 マタイのこの章を、私は小学4年生の時に演じた。

 舞台に登場したのは、バプテスマのヨハネの役、イエスさまの役、そして複数のパリサイ人たち。ヨハネ役の級友は、紙で作ったらくだの毛の衣をまとい、背中にはイナゴの絵。段に登り、パリサイ人たちに「悔い改めなさい」と言うセリフが見せ場。

 イエスさまは、金色の飾りを付けたフラフープを腰に持ちながら登場。火のバプテスマと聖霊さまを、金のフラフープで表すという、名演出のつもり。大切な「今はそうさせてほしい〜」の第一声のセリフがあったかどうかは忘れてしまったけれど。

「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)

 このセリフだけは、クラス全員、裏方の道具作りの級友もみんなで一緒に声をそろえる練習を何度もした。

 私の役柄は、鳩の絵をいっぱい描いておくこと。発表会の本番では、舞台の高いところに登って鳩の絵を飛ばす級友とともに、御霊を表すシャボン玉を吹きかける黒子役だった。いっぱいシャボン玉を吹かなくちゃと、口の中が石鹸だらけになって、「これはわたしの愛する子〜」どころではなかったほろ苦い思い出がよみがえる。


 今私は東京に一時帰国中で、母校の修道院に泊めてもらっている。同じ敷地内、すぐそこにバプテスマを演じた時の講堂もある。

 半世紀たってこの3章を、同じ場でデボーションできることになるとは、神さまのお計いは恵でしかない。

 預言のお計らいが次々と成就されていくマタイのグッドニュースに、これからじっくり耳を傾けていきたい。


●祈り:

 愛する天の神さま、イエスさまを地上に遣わせてくださってありがとうございます。私たちが十字架により、イエスさまと一体にさせていただいたことを感謝します。そして「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」を、自分の御言葉として受け取らせていただきます。どうか神さまの恵のご計画が世界に拡がりますように。

イエスさまのお名前で祈りをお捧げします。アーメン


閲覧数:40回

最新記事

すべて表示

マタイの福音書 28章 「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(20節) イエス様がお生まれになってから2021年。極東アジアと言われる日本にもイエス様の教えがとどき、たとえ”1%しかイエス様の教えを信じるものがいない日本”と言われていても私には沢山の望みがある。 同じように1%に満たないクリスチャンしかいない国がある。アフガニスタン・イスラム共和国。2001年、厳格な

マタイの福音書27章 「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。」18節 私は以前、子どもたちのサンデースクールのために、メッセージの準備をしていた。イエス様の十字架からというテーマで、ちょうどその日、私はこのマタイ福音書を開いていた。そして、この27章18節、上記のみことばが衝撃とともに、私の目に留まった。 イエス様が十字架に引き渡されたのは、人々の「ねたみ」ゆえだ

マタイの福音書26章 『罪から離れてイエスのもとに帰る』 26章はイエスが十字架にかかる前日、つまり木曜日の模様が細かに描かれている。最後の晩餐となる過越の食事は、木曜日の日没に持たれた。この晩餐の箇所から、聖餐式を行う目的とその理由を学ぶことができる。聖餐式の目的は、十字架に捧げられたイエスのいのち(パン)、死(ぶどう酒)、そして復活による臨在(式そのもの)を思い出し、記念するためであり、聖餐式