2021年8月6日 ディボーション

マタイの福音書 2章


 イエス様が誕生された。救い主が地上に姿を現された。もし私がその時代に生きていたなら、感激と感謝で強く心を動かされ、喜びの涙を流しただろう。


 2章では、東の国(バビロン辺り)にいる博士たちが、イエス様を礼拝するために、はるばるベツレヘムまでやって来た時の様子が書かれている。バビロンからベツレヘムまでの距離は約1600km。これは日本の青森から福岡までの距離に相当し、毎日10時間ぶっとおしで歩き続けたとして25日間かかる。

 それほどまでに長い時間をかけてでも、イエス様を拝みに行きたいと願った博士たちを、星が先導した。無事に幼子イエスと対面した博士たちは、ひれ伏して礼拝し、宝の箱を開けて高価な贈り物(黄金、乳香、没薬)を献げた。時間とお金を惜しみなく使って心からの喜びを表現する博士たち。それとは対照的に、キリストの誕生を呪い、怒り狂って暴挙に出るヘロデ大王。


 聖書が書かれた時代も、私たちが生きる今の時代も、神の存在を「喜ぶ者」と「呪う者」がいる。以前の私は、ヘロデ大王と同じく「呪う者」だった。猜疑心を抱き、恐れや不安に駆られ、自分を偽り、人を裁き、神様が悲しむ生き方をしていた。

 けれども、ある日を境に、まるで星に導かれるようにイエス様のもとにたどり着き、「喜ぶ者」に変わった。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」(10節)


 相変わらず、つまらないことでクヨクヨしてみたり、悪魔の誘惑に負けそうになる私だが、それでも、怒りの感情に支配されて自分を見失うことは無くなった。神様を礼拝する「喜び」を知ったからだと私は思っている。「礼拝」とは、愛と尊敬をもって拝むこと。神に向き合い、神を讃美し、神の恵みに感謝することだと辞書に書いてある。


 神が創造されたこの世界に、神の手によって作られた私たちが生かされ、ひとりひとり見事に違う賜物が与えられている喜び、兄弟姉妹たちと一緒に讃美できる喜び、励ましあえる喜び、学べる喜び、働ける喜び、食事を楽しむ喜び、美しい自然に出会う喜び、音楽や美術に触れる喜び、誰かのために祈る喜び。イエス様を知った喜び。毎日たくさんの喜びが、私を動かすエネルギーになっていることに、今日も感謝。

主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」(ネヘミヤ記8章10節)


祈り:

 愛する天のお父様。イエス・キリストを地上に送ってくださったこと、そして、イエス様のもとに私たち一人一人を導いてくださったことに感謝します。心の中にいつもいてくださる神様を礼拝することは大きな喜びです。私に生きる力を与えてくださりありがとうございます。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

閲覧数:25回

最新記事

すべて表示

マタイの福音書 28章 「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(20節) イエス様がお生まれになってから2021年。極東アジアと言われる日本にもイエス様の教えがとどき、たとえ”1%しかイエス様の教えを信じるものがいない日本”と言われていても私には沢山の望みがある。 同じように1%に満たないクリスチャンしかいない国がある。アフガニスタン・イスラム共和国。2001年、厳格な

マタイの福音書27章 「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。」18節 私は以前、子どもたちのサンデースクールのために、メッセージの準備をしていた。イエス様の十字架からというテーマで、ちょうどその日、私はこのマタイ福音書を開いていた。そして、この27章18節、上記のみことばが衝撃とともに、私の目に留まった。 イエス様が十字架に引き渡されたのは、人々の「ねたみ」ゆえだ

マタイの福音書26章 『罪から離れてイエスのもとに帰る』 26章はイエスが十字架にかかる前日、つまり木曜日の模様が細かに描かれている。最後の晩餐となる過越の食事は、木曜日の日没に持たれた。この晩餐の箇所から、聖餐式を行う目的とその理由を学ぶことができる。聖餐式の目的は、十字架に捧げられたイエスのいのち(パン)、死(ぶどう酒)、そして復活による臨在(式そのもの)を思い出し、記念するためであり、聖餐式