2021年8月30日 ディボーション

マタイの福音書26章


『罪から離れてイエスのもとに帰る』


 26章はイエスが十字架にかかる前日、つまり木曜日の模様が細かに描かれている。最後の晩餐となる過越の食事は、木曜日の日没に持たれた。この晩餐の箇所から、聖餐式を行う目的とその理由を学ぶことができる。聖餐式の目的は、十字架に捧げられたイエスのいのち(パン)、死(ぶどう酒)、そして復活による臨在(式そのもの)を思い出し、記念するためであり、聖餐式を記念として行い続ける理由は、キリストの再臨を待ち望んでいるからである。


 「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」(29)


 この後、イエスは弟子たちを連れてオリーブ山へ出かけ、血が滴るほどの祈りを神に捧げる。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」イエスは自分が、人々の罪の贖いの捧げ物として、この地上に遣わされた者であることを知っておられた。それでも、神との断絶を前に嘆かれたのである。しかしイエスは、「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と祈り、さらに「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。

 イエスはこの世で唯一、神に見放された者となった。私たちの罪のために、神に見放されたのである。しかし、弟子たちはと言うと、イエスに「目を覚ましていなさい」と言われながらも、眠ってしまっていた。この描写はとても対照的である。知らないことがいかに幸せであるかがわかる。しかしきっとイエスは、安心して眠ってしまっている弟子たちを見て、微笑んだのではないだろうか。

 そして遂にイエス逮捕の瞬間が来た。イエスは自分を裏切ったユダに「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい。」と言われた。この時、ユダはどんな思いでこの言葉を捉えたのだろうか。憎まれても仕方のないことをしたのに、それでも「友よ」と呼ばれるイエスに対して、私なら、信頼されていたのに裏切ったという後悔の念に襲われただろう。そして、全てが終わった、とも思うだろう。イエスを神の御子として信じていたのだ。そのイエスを裏切ったのだから、赦されるはずはないと思うだろう。

 ペテロもまた、イエスを知らない、と言ってイエスを裏切った。しかもそれは、イエスの予言通りであった。彼もまた、全てが終わった、と思ったのではないだろうか。


 イエスという罪のないお方は、弟子たちに裏切られ、不条理な裁判にかけられ、いよいよ十字架への道を歩むこととなる。旧約聖書と新約聖書が与えられている者にとって、この一連の出来事は神のご計画の成就であることがわかる。しかし、もしその渦中にいる者であったなら、何があってもイエスのもとに残った者となったであろうか。それとも「私はイエスなんて知らない」と言って逃げる者となったであろうか。

 イエスはすべての人を罪から解放するために、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。そして、私たちは羊のようにさまよっていたけれど、今はイエスというたましいの牧者であり、監督者のもとに帰ったのである(1ペテロ2:23−15)。


祈り:

イエス様、あなたの愛のゆえに私が、生かされていることをありがとうございます。今、何が起こっているのか、私にはわかりませんが、あなたはすべてをご存知です。どうぞ、あなたの望むままになりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



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