2021年8月28日 ディボーション

マタイの福音書 24章


「しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」


●学んだこと:

 いよいよマタイのハイライト、「オリーブ山の説教」である。イエスさまご自身による、「天の御国の終末にかかわる預言」のはじまりだ。

 イエスさまはエルサレムの神殿が破壊されることを告げてから、オリーブ山に行き、座っていた。”座っていた”というのは、弟子たちがすぐ近くに集まってくるのをきっと待っていたのだろう。

 弟子たちは開口一番、①神殿崩壊はいつ起きるのか? ②再臨はいつなのか? ③世の終わり、患難のしるしはどんな予兆なのか? と、矢継ぎ早に質問した。

 するとイエスさまは順番通りには答えず、まず③に応答する。今後待ち受ける、弟子たちにさし迫る脅迫や弾圧をなにより案じているからだろう。ニセのキリストが大勢現れて、人々は惑わされるともいい当てる。日本しかり。

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」(7節)、これが③、世の終わりの”しるし”だという。私たちは今まさに終末、大患難時代を生きている。

 それにしてもすでに100余年、争いごとの絶えない人間社会、地球の温暖化による天災の悪循環はいつまで続くのだろうか。終末預言の中には、携挙のことも語られている。

「その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」

 イエスさまさえ知らない、父なる神さまだけのご計画だという。

 患難 前 携挙、患難 中 携挙、患難 後 携挙については諸説論じられているが、どの順なのか私の頭では考えが及ばないので、なんとかなる信仰で神さまにゆだねている。ただし!

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(35節)


 今週の聖日説教を聞き、私は反省した。年度聖句を、目標とするスローガンかのごとく選んでしまった。御ことばのまま受け取るのではなく、努力目標のようにしてしまった。

 イエスさまのことばのすべては永遠の愛に収斂される。十字架にはじまり、天の御国のゴールをめざす愛の旅路だ。マタイに登場する百人隊長のように、「ただ、おことばを下さい」(5:8)と、受け取るだけで良かったのだ。

 御ことばを目標に掲げて、めざさなければ、がんばるべき、の ”ねばべき” をしてしまっては、遅かれ早かれ行き詰まってしまうと、メッセージは語ってくれた。

 イエスさまは「わたしのことばは消え去ることがありません。」と約束してくださっているのだから、ことばのまま、そのままで受け取ることの大切さを痛感した。それだけでイエスさまは私たちを聖なる者としてくださる。ホーリネスへの招きに喜んで進み出たい。


●祈り:

 天の父なる神さま、「あなたはわたしのもの」と、あなたが先に私を選んでくださいました。まず恵みをくださいました。それなのに自我を優先して、ねばべきと衝動的になる私をどうか鎮めてください。こうして今観想できても、めざしたりがんばったりすることをやめることは不可能です。だからもう少し立ち止まることができますよう、霊的成長ではなくて、霊的広まりというか霊的ゆとり、みたいな拡充を与えてください。どうか恵みのリズムで生きられますよう整えてください。

 イエスさまのお名前で祈ります。アーメン

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