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2021年8月27日 ディボーション

マタイの福音書23章


 前章で「主を愛すること」が律法の中で一番重要な戒めだと告げられたイエス様。この23章では、律法学者やパリサイ人たちは、自分の虚栄心を満足させるために、うわべだけの善行を積んでいると指摘された。イエス様は、彼らの偽善行為の具体例をいくつか挙げられた。まとめると大体このようになる。

*正論を述べるだけで実行しない

*特権意識が強く人を見下す

*不純な動機(虚栄心・高慢・自己満足)によって行動する

*心は意地汚く強欲なのに、清く正しく美しいふりをする


彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。」(5節)

 この御言葉が胸に刺さる。 

 私はずっと、人に見せるために欺瞞に満ちた生き方を実践してきた。

 小学生の頃は、親から体罰を受けたくなくて、死に物狂いで勉強した。中学高校時代は、先生から褒められたいという動機で、無理して優等生を演じた。大人になってからは、社会から認められたい一心で、自分の株を上げるためだけに働いた。

 それのどこがいけないのかと考える人がいるかもしれない。

 たとえ不純な動機や見せかけだけの言動でも、結果的に、誰かが喜び、人の役に立ち、自分の評価が上がるなら、それでいいじゃないかという意見もあるだろう。

 しかし、自分をよく見せるために他者の目を意識する生き方は、自分も他人も傷つけることになる。表面だけ取り繕ってもいつかボロが出る。メッキは必ず剥がれる。


 たとえば、人に褒められたくて立派な行いをする。立派な行いそのものは素晴らしい。しかし、立派な行いをする動機が、「主に喜ばれるため」「他者を愛するため」ではなく、「自分の欲や見栄」「自分の体裁を保つため」だとしたらどうだろう。

 もし、人が褒めてくれず、自分の計画が達成されなかった時、相手を憎む。他に褒められている人がいたらその人を妬む。あるいは、自分自身を責めたり傷つけはじめるかもしれない。


 40年以上の付き合いになる私の親友が、こんな言葉を送ってくれた。哲学の祖、ソクラテスの「無知の知」の考えだ。

 「この世界には、自分が知らないことが無限にある。自分の無知を常に確認するために、永遠に学び続ける姿勢が私たちには必要。傲り高ぶらないために。」


 年齢を重ね、社会的地位や経済的自由を手に入れると、人は高慢になる。上から目線で世間を見るようになったり、過去の栄光にしがみつき、威張って偉そうな態度をとりたがる。自分を上げて他者を下げようとすれば、そこで人間の成長は止まる。

 慢心によって身の破滅を招かないために、また、知恵と知識を持っておられるイエス様に従う者であるために、自分の無知を知り、常に学び続ける者でありたいと思う。


 形式だけ、口先だけのクリスチャンではなく、いつも主が喜ばれる行いを実践することによって、人々がその善行を見て「主」が褒め称えられる。けれども、偽善者は「自分」が褒め称えられたいという不純な動機に基づき行動する。このような偽善者の行いをまねてはいけない、とイエス様は語っておられる。


祈り:

 愛する天のお父様。聖書を通して私たちに真理を教えてくださり感謝します。地上では、病のため、迫害のため、天災のために、多くの人間が苦しみ、恐れを抱いています。どうぞ一人一人に必要な力を与えてください。慰めと励ましと助けを与えてください。恐れることなく、主を信頼して、今日の一日を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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