2021年8月26日 ディボーション

マタイの福音書22章 


 今日は、1節から14節に記されている「王子の婚礼のたとえ」を考えてみたい。

王は、披露宴に招待した客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとはしなかった。」(3節)

 彼らは、王子の披露宴に招待されることは最高に名誉なことなのに、その招きを拒否するどころか、伝令のしもべを殺してしまったのである。

 この彼らとは、当時の祭司、律法学者、パリサイ人たちのことを指している。またこの披露宴とは、神の国のことを指している。

 彼らは、なぜ、神の国への招待を拒否したのか? 彼らは自分たちこそ神の国にふさわしいと自認していた。彼らは、神の国を拒否したというより、イエスを通して神の国に招ねかれているという、つまりイエスを通してという事を拒否したのである。


 そこで王は、「だから大通りに出て行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい」(9節)と命じた。すると「良い人でも、悪い人でも、出会った人はみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。」(10節)と記されている。

 祭司、律法学者、パリサイ人たちは、取税人や罪深い女やサマリヤ人たちは、神の国に入れないとしていた。しかし、イエスは、「良い人でも、悪い人でも」神の国に招いたのである。そして彼らは、その招きに応えて、その婚礼に来たのである。

 結局、自分たちこそ神の国にふさわしいと自認していた祭司、律法学者、パリサイ人は、神の国に入ることが出来ず、神の国にふさわしくないと見做されていた「罪人たち」が、神の国に入ることが出来たのである。


 しかし、その神の国=王子の婚礼の披露宴に参加できた人の中で「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。」(11節)というのだ。そして、なんと王は、その人を外に放り出してしまう。

 これは、どういうことか? 当時、婚礼の礼服は、披露宴の主催者が用意することになっていたそうだ。つまり、この一人の人は、王が用意した礼服を着るのを拒んだということになる。

 ここで分かることは、神は、良い人でも悪い人でも、すべての人を神の国に招いている。そして、すべての人にイエスによって与えられる礼服=十字架による救いを与えている。しかし、その恵みを信じて受け取らない者は、神の国にふさわしくないということだ。


主イエス・キリストを着なさい。」(ローマ13:14


あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 」(ガラテヤ3:26〜28

 また帰って来た「放蕩息子」(ルカ15:11〜32)に、父親は「一番良い服を着せなさい」と言われた。


 すべての人を救いたいと願っている神。そのために神の御子イエスを十字架にまでつけてくださった神。礼服まで用意して待っていてくださる神。その神の愛に感動と喜びを感じる。しかし同時に、この礼服を着なければ、神の国は入ることは出来ないという事。そしてその礼服を着ることを拒む人がいるということに心が痛む。

 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(14節)

 これは不思議な表現だ。招かれるということは、イコール選ばれているということだ。ここを意訳すると、選ばれている人は多いが、選びを受け入れる人は少ないということだ。

 私たちは、招かれている者として、用意された礼服を受け取る者でありたいと思う。


祈り

 天の父なる神さま。私は、神に国にふさわしい者ではありません。にもかかわらず、イエスさまの十字架のゆえに、神の国に入れられたことを、ただただ感謝します。この礼服を着るのを拒む者がいることに心が痛みます。どうぞ、私たちの宣教を通して、一人でも多くの拒んでいる者たちが、心を変えて、イエスさまの救いを受け取ることができますように、心から願います。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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