2021年8月23日 ディボーション

マタイの福音書19章


『イエスによる正しい教え』


 私はもともと、プロテスタント派ではなく、別の教派で洗礼を受けるべく学びをしていた。今でも覚えているのは、学びの一環として、ハワイ大学構内にある教会を訪れた時のことである。礼拝堂の中に入ると、本来なら壁に掛けられていると思われる大きな十字架が祭壇の床に置かれてあった。礼拝堂についてまず、共に賛美を捧げ、主の祈りを捧げた。その後、学びの指導者がまず、床に置かれてある石を手に取り、十字架を打った。そしてその石は、次の人へ、また次の人へと、参加者全員を周り、皆が十字架をその石で打った。礼拝堂内は非常な静寂に包まれていたので、十字架を石で打つたびに聞こえる「コン」という音はなんとも悲しかった。しかしこれは、自分もイエスを十字架につけた一人であるということを実感させてくれた体験であった。

 私は、その教派で洗礼を受ける予定であった。しかし、問題が発生した。その問題とは、私の離婚歴であった。その教派では、離婚歴のある人に洗礼を授けることができないという規定があったのである。


イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者は初めの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」(4〜6節)。


 司祭はこの聖句、特に6節の「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」という箇所を強調して、「神は離婚を認めておられない。だから私たちもそれに倣い、離婚歴がある人に洗礼を与えることはできない。」と説明された。しかし、その離婚歴を無かったことにする方法はある、とも言われた。詳細は割愛するが、要は書類上で私の離婚歴を抹消すれば、洗礼は受けられる、というものであった。司祭は、そのためにかかる費用はすべて教会が出す、とも言ってくださったが、私はお断りした。

 私はこの後、プロテスタント派で洗礼に与ることはできたが、心の中には「神に捨てられた者、消えない罪を持つ者」という感覚がずっと残っていた。教会のメッセージで何度となく「十字架によってすべての罪は赦された!」と聞いても、このマタイの箇所が語られるたびに、離婚歴という十字架が私の上に重くのしかかっていた。

 ところがある学びを通して、ようやく私は「神に捨てられた者、消えない罪を持つ者」、「離婚歴という十字架」から解放されることとなった。それは、聖書を字義通りに解釈するという学びである。文脈を考慮しながら読むことで、聖句の本来の意味を正しく理解しよう、という学びである。「救いは信仰と恵みによる」と何度となく繰り返し教わり、それによって「離婚歴のある人に洗礼はできない」という規定は、業による救いであり、聖書的ではないということがわかった。聖書に書かれてあるイエスの教えを正しく理解するなら、未信者であった頃に犯した離婚という神が喜ばれないことをしてしまった者でも、悔い改めて、イエスは主であるという信仰に立つなら、救われるのである。また、信仰者となってから離婚という経験をすることになってしまった者であっても、一度与えられた救いは取り去られることはないのである。


「こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた」(ヨハネの黙示録12:9)


 終わりの頃には、偽教師が現れると預言されている。ならばいっそうのこと、イエスの教えを正しく学び、惑わされることのない信仰に立ちたいと願う。


祈り:

 天におられる父なる神よ。どうか、人が作った律法に惑わされて、罪に陥ることがないようにお守りください。また、自らに律法を課して、罪に陥ることがないようお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



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