マタイの福音書17章
『イエスさまとの蜜月』
●学んだこと:
16章で、イエスさまはとうとう、ご自身が「生ける神の御子、キリスト」であることを弟子たちに告げられた。そして十字架で苦しみを受けて殺され、三日目によみがえることも示された。
弟子らはメシアを喜びつつ、死の預言の理解に戸惑ったことだろう。
10章で十二使徒として選ばれたばかりの新人だ。「天の御国が近づいた」と、宣教命令がくだされたこと。イエスさま同様、悪霊どもを追い出す力を授けられたこと。任務は重責ながら、信仰の力は成長過程だ。
急展開で次々と起こる奇跡の御技。イエスさまこそがキリスト、メシアと信じる一方で、メシアはもっと英雄然とした人物ではないかと、不審に揺らいでもいる。町から町へ、イエスさまに帯同して行くだけで一杯いっぱいだ。謎解きのようなたとえばなしの連続で、頭の中もオーバーヒートしそう。それでも弟子同士で、イエスさまの言葉をどう理解すればいいのか、夜な夜な話し合っていたことだろう。
私も事象の多いマタイをデボーションするには、じっくりゆったり鎮っていないと上滑りしそうになる。
16章から17章に移るには空白の6日間(ルカでは8日間)がある。イエスさまは待たれる方でもあるので、弟子訓練の中には猶予の時間も与えてくださっていたのかもしれない。
なにしろ、見たこともないできごと、シャカイナ・グローリー(山上の変貌)が待ち受けていたのだから!
「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」2節
モーセとエリヤも現れて、イエスさまと語り合っている。目撃したペテロは思わず口出ししてしまう。私が幕屋を三つ造ります、と。だが間髪を入れず、天の声が響いた。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け。」5節
神さまはイエスさまの言葉をただ「聞きなさい」、と制した。
そうなのだ、私たちはイエスさまが喜ぶことをしたいと思うより、まず第一に聞くことが大切だ。聞くだけでなく、聞き従うことで初めてイエスさまの似姿に変えられていくのだ。
神さまの声にひれ伏し恐れた弟子たちに、イエスさまは近づいて触れ、「起きなさい。恐ることはない。」7節、と声をかけてくださった。ペテロの肩を抱き起こしてくださったのかもしれない。
優しいイエスさまの、なんともいえない愛の表われである。一方で、弟子たちの不信仰を嘆き、「いつまで一緒にいなければならないのか、いつまで我慢しなければならないのか」と、本音を漏らす場面もある。弟子との密接な交わりがあるからこその、リアルイエスさまが愛おしい。
イエスさまとの蜜月を、私も感謝して体感したい。
●祈り:
天のお父さま、イエスさまは私に訊ねられました。「あなたがたは、私をだれだと言いますか」(16:15)。イエスさまの復活後にクリスチャンとなった私は、当たり前のように、イエス・キリストと呼び、祈ります。でももっとキリストとしてあがめられますように。イエスさまの御言葉に耳を澄まし、全身で御言葉をキャッチできますよう私の欠けを補ってください。
イエス・キリストのお名前で感謝して祈ります。アーメン
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