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2021年8月20日 ディボーション

マタイの福音書16章


 15章で4000人の人々の空腹をわずかなパンと魚で満たされたイエス様。この16章ではご自分の弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(15節)とお尋ねになった。弟子の一人ペテロが、「あなたは生ける神の子キリストです。」(16節)と答えた。この言葉は、人間ペテロではなく、天の父によって明らかにされたのだとイエス様は伝えられた。そしてイエス様は、間もなくご自分が苦しみにあわれ、殺され、3日目に復活されることを弟子たちに話された。

 するとペテロが、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(22節)と制し、そのペテロに向かってイエス様がこう言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(23節)


 同一人物ペテロの口から、「主の言葉」と「サタンの言葉」の両方が出てきた。私たちにも同じことが起こるのではないだろうか。

 たとえば、礼拝では、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり、アーメン」と主を讃えて祈る。ところが、自分に都合の悪いことや期待外れなことが起こった時には主を拒みたくなる。そんな自分勝手な心が、誰の胸の中にもある。

 たとえ自分が損をしても、迫害を受けても、怯まず、挫けず、勇気をもって積極的に、神の喜ばれる道を生きてほしいと願うイエス様の声が聞こえてきそうだが、果たして自分にそんな生き方ができるだろうかと、私は考え込んでしまう。


 私は常日頃、口には出さないが、心の中で思っていることがある。もし夫に危険が迫った時、私は自分の命を差し出してでも彼を守る、その覚悟がある。

 ところが先日こんなことがあった。

 夫と二人で散歩中、リードに繋がれていないジャーマンシェパードが2頭、前方から勢いよく走り寄って来た。私はとっさに夫の背後に隠れた。幸い、犬はすぐに去って行き、噛みつかれることはなかったが、私はその場で大笑いした。

 自分を犠牲にしてでも夫を守ると豪語していた私は、大型犬を前にしてビクつき、夫を守るどころか、彼を盾にして自分の身を守ろうとした。おかしくてお腹を抱えて笑い転げた。

 所詮、自分はその程度の人間なのだ。偉そうに言っても行動が伴わない。そんな人間に対してでも、イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい。」(24節)と言ってくださる。この御ことばの重みを今、ずっしりと感じている。


祈り:

 愛する天のお父様。イエス・キリストの教会を建ててくださり感謝します。私たちが勇敢な神の家族でいられますよう心を強めてください。他者のために犠牲になれる者に私を変えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

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