2021年8月17日ディボーション

マタイ13章


『ユニークな説教壇から響くイエス様のメッセージ』


 その場所に自分もいたかった。そのように思う箇所の一つだ。

 なぜなら、ここはイエス様の野外説教…と言っても、ただの野外ではない。イエス様は、山の上でも説教を語られた。しかし、ここではなんと、舟の上から語られたのだ。

 会衆席は湖の岸辺、説教壇は湖の上に浮かぶ舟の上だ。なんとユニークだろうか!湖に浮かぶ舟の上からイエス様の御声がこだまする。

 このような形式でのメッセージは、私自身、イエス様以外に見たことがない。ゆえに、私も聞いてみたかった。その岸辺で湖を背景に響くイエス様のメッセージを聞いてみたかった。そのような思いを与えて、イメージをかき立ててくれる箇所、それがこの13章だ。


 メッセージの内容はというと、有名な種まきのたとえ話で始まる。ユニークな説教スタイルで、たとえを多く用いられるイエス様に、弟子たちは近寄り尋ねる(湖の中にジャブジャブと入っていって、イエス様が座る舟に近寄ったのだろうか?)。


「なぜ、彼らにたとえでお話になるのですか」10節


 確かにそうだ。そんな遠回しではなく、もっとストレートに語ってくださった良いのに。私もそこにいた弟子だったら、そう思うだろう。


 しかし今日、私はイエス様がこの問いにお答えになったことばに注目したい。

「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。」11〜13節


 イエス様のこのことばに、線を引かせていただいたが、「彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、…」とある。要するにイエス様は、私たちの見方、聞き方がどうあるか、その重要を説いておられる。


 今日、耳を傾けているみことばだってそうだ。片手間に聞くことだってできる。テレビをつけながら、聖書を開くことだってできる。でも、そうするとどうだろう?私の場合は、往々にしてみことばを聞いてはいても、右耳から左耳に流れてしまうことが多々ある。

 やはり、イエス様だけに集中する時間が必要なのだ。その時とばかり、じっくり耳を澄ませて聞く。心に受け取る。思い巡らす。


 この後、イエス様は弟子たちに言われる。

「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」16節


主よ、私にもあなたをしっかり見ることのできる幸いな目を与えてください。

主よ、私にもあなたの声をしっかり聞き入れる幸いな耳を与えてください。

このひとときを感謝します。私のディボーションライフをもっと祝福してください。アーメン。

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