マタイの福音書12章
『そこいた者』
12章は異邦人である私たちにとってとても大切な章である。イエスはユダヤ人の救いのために来られた。しかし、イエスをメシアであると信じることが出来ないパリサイ人たちは、遂には神である聖霊を冒涜する。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ」(24)。この出来事によって、ユダヤ人の救いは据え置かれ、異邦人への救いの時代の幕開けとなる。
この章を読んでいて、自分ならどう反応しただろうかと考えた。イエスこそが、旧約聖書に預言されているメシアであると確信した人たちの中だろうか。それとも、イエスはメシアではないと信じる人たちの中だろうか。または、「もしかすると、イエスが旧約で預言されていたダビデの子なのではないだろうか」と思いながらも、自分たちでは判断できない人たちの中だろうか。新約聖書が与えられている者にとって「イエスがメシアではない」という考えはない。しかしこの時代、新約聖書は存在しない。お偉い律法学者たちが「メシアではない。悪霊のかしらだ」と言うなら、「そうだ、イエスは人間であって、メシアではない。悪霊のかしらだ」と彼らの説明を支持してしまう自分がいただろう。
聖歌400番「君もそこにいたのか」は、今を生きる私たちに、2千年前のイエスの贖罪の場面に「君もそこにいたのか」と問いかける。イエスが全人類の罪のために十字架にかかられたことは、遠い昔の出来事である。しかし、原罪を持つ私たちは常に「そこにいた」者なのである。聖書を読むとき、傍観者であってはならない、といつも思う。なぜなら、旧約聖書であろうと、新約聖書であろうと、私はいつも「そこにいた者」だからである。
君も そこにいたのか 主が十字架につくとき
ああ なんだか心が 震える 震える 震える
君も そこにいたのか
君も 聞いていたのか 釘を打ち込む音を
ああ なんだか心が 震える 震える 震える
君も 聞いていたのか
君も 眺めていたのか 血潮が流れるのを
ああ なんだか心が 震える 震える 震える
君も 眺めていたのか
君も 気がついたのか 突然日がかげるのを
ああ なんだか心が 震える 震える 震える
君も 気がついたのか
君も 墓に行ったのか 主をば葬るために
ああ なんだか心が 震える 震える 震える
君も 墓に行ったのか
君も そこにいたのか 主がよみがえらえたとき
ああ なんだか心が 震える 震える 震える
君も そこにいたのか
祈り:
愛する天のお父様、あなたの愛をありがとうございます。あなたが十字架にかかられた時、死なれた時、そしてよみがえられた時、私はそこにいました。あなたの愛に導かれる前の私は、あなたを迫害する者でした。ですから、あなたを迫害する人たちを憎むのではなく、愛する心を私に与えてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
Comments