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2021年8月15日 ディボーション

マタイ11章


「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」28〜30 節


 イエス様は、12人の弟子達に語られた後に宣教のためにそこを立ち去られた。

この11章でまず語られるのが、マタイ4章でイエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネである。この時はバプテスマのヨハネは牢獄の中である。牢獄の中でイエス様のみわざを聞いていたヨハネは、弟子達を通してイエス様に、3節「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」と言い送った。愛するヨハネから疑心なことばを受けたイエス様のお心はきっと悲しまれたと思う。でも、そのようなそぶりさえみせずに優しくヨハネをかばうように彼らに答えられた。4〜6節 「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきょめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」 それからイエス様は、ヨハネのことをかばうように群衆に話し始められた。


 ヨハネがつまずいたのは、神を優先にしないで自分の心を優先したことである。牢獄の中にいてイエス様のみわざを実際に自分の目でみることができずに、唯一弟子達をとおして聞くだけだったから確かめたかったのでしょう。ましてや、自分が洗礼をさずけ、自分にはあの方の履き物のひもを解く値打ちもありませんとまで言っただけに、尚更イエス様の口を通されることばを聞きたかったと思う。それが人間が陥りやすい自分の心が先にくるものだろう。私にもよくあることで、つい自分の心を先にしてしまう。神様ならどうされるかということが問われるところである。ヨハネの失敗からある聖句が示された。


ヨハネの福音書20章29節「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」


 12人の弟子達にこれから実習による宣教の学びが始まる。もうすでに始まっている。そして、汚れた霊を制する権威もあたえられた。つまり、病を癒やす権威があたえられたのだ。

12人の弟子達は、「イエス様と一緒に、人間をとる漁師にいざ行かん。」と気持ちも新たに出発したのだろうか。12人の弟子達一人一人に思いを馳せた。イエス様と宣教の学びを肌で感じながら旅をすることは最高の恵みであったと思う。本当の弟子とは、自分の弱さを幼子のように素直に認めて、謙遜になり、へりくだって主のくびきを負って学ぶことである。イエス様はこの12人にはそのことができると確信されて弟子と招かれたと思う。


祈り

 愛する天の父なる神様。ヨハネやトマスの失敗から信仰の原点に立たせてくださって感謝します。私もあなたのくびきを負って学ばせて下さい。私に謙遜なこころを与えて下さい。幼子のように自分の弱さを大いに誇って、へりくだる心に変えて下さい。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン



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