2021年8月14日 ディボーション

マタイの福音書10章


『十二使徒へ宣教命令』


●学んだこと:

 8章と9章でイエスさまは12の奇跡を行った。10章では、イエスさまが12人の弟子を召集。宣教に遣わす働き手を”使者”として任命し、使命を授けた。そして宣教の地で起こることや対処方法を用意周到に教えるのだが‥‥。

 その前に、十二使徒として選ばれた弟子たちは、8章と9章で起こったイエスさまの御技をどのように見ていたのだろうか? 彼らは奇跡を実際に見聞きした証人でもあるはずだ。

 静かで質素な佇まいのイエスさまは、なにか特異なオーラを醸していたのだろうか? あまりに当たり前のように奇跡を起こすから、キツネに摘まれたような感覚だったのだろうか? いやもっとちゃんと神聖に、メシアを直観できたのだろうか?

 肉親や家や生業をあっさりと捨て、イエスさまに従って使徒となったモチベーションの中に「イエスさまの奇跡を見た」ことは含まれているのだろうか? 

 私は含まれていると思った。奇跡を見聞きして心を揺さぶられ、なにか大いなるものを感じ、ワクワクと期待する、熱い若者達だろうから。

 イエスさまが使徒を選んだ基準は聖書の中では語られていないけれど、イエスさまの奇跡は十二使徒に対する宣教でもあった、のではないだろうか。そして奇跡を行いながら、イエスさまは12人の若者を選抜した。のちにイエスさまを裏切って密告者するユダさえも、十字架の成就のためにあえて登用した。使徒たちの”欠け”こそを、イエスさまは絶妙に用いることになるのだ。

 そしてズブの素人の若者らに、宣教のA to Z を教え諭すのだが、それは単なるノウハウではなく、”クリスチャンとしての生き方” として受け取ることもできる。


「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」(8節)

 人と交わるときは無償で。ただで受けて、ただで与えるというのは愛そのもの。

「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。」(12節)

 平安=シャロームには、神さまの恵み深さなどの意味も含まれているから、パスターのする祝祷のような祈りだろうか。私も友の家を訪問する時、平安を祈るあいさつができるようになりたい。


 マタイで記されているイエスさまの十二使徒への宣教の教え諭しの場面は、特に16節以降はシビアで硬派だけれども、同じ場面のルカ6:20〜の語り口調は、もっと柔らかで愛が前面に出ている。

 マタイのデボーションは、ルカやマルコと併読すると立体的に深めてくれる。


●祈り:

  愛する天のお父さま、マタイを通し、イエスさまの御言葉をいただけることを感謝します。

 イエスさまは、ご自分が行われたことをそっくりそのまま行うよう、使徒たちに命じました。イエスさまの似姿に変えられていく旅路を、私も歩んでいます。どうかいつも「イエスさまならどうなさる?」とただしながら、仰せの道を踏み行かせてください。

 イエスさまのお名前で祈ります。アーメン

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