マタイの福音書 9章
「あなたの認めたくないものは何ですか。どんなに辛くてもそれを認めれば道はひらけます」
加藤諦三さんの著書『人生を後悔することになる人・ならない人』の冒頭に書かれている言葉だ。どうしても認めたくない現実を受容すれば、確かに人生は好転する。
私は、聖書を読み、自分が自己中心的で傲慢な人間だと知った。ありのままの自分を素直に認めたが、ひどく落ち込んだ。自分一人の力では乗り越えられないと思った。神様を必要とする気持ちになった。主を求め、イエス様の十字架の愛を信じた。赦された自分に生まれ変わった。神様の愛を知って癒やされた。この世界は思っていたほど悪くない場所だと知った。自分を大切に扱う方法を覚えた。そして、以前の私のように弱り果てて倒れている人に、神様の恵みを伝えたいと思った。
マタイの福音書9章では、病気や死に直面する人々が、イエス様を求めて近づいてくる様子が書かれている。彼らは皆、現実逃避せず、辛さや苦しみと向き合い、その上でイエス様に訴えかけた。その結果、救われて癒やしが与えられた。イエス様は、人間には不可能な奇跡を起こすことで、救い主の権威を示された。
中風の人は、自分の罪を恐れて弱っていたが、”しっかりしなさい”とイエス様に励まされて起き上がった。娘を亡くした父親は、イエス様にひれ伏して娘の生還を願い求めたところ、娘は起き上がった。長血を患う女性は、イエス様の衣の房に触れさえすれば救われると信じ、後ろから近づいていって触れた。そして癒やされた。あなたはダビデの子孫だと叫びながらイエス様について行った盲目の二人も、目が開けられた。
さて、取税人マタイ。解説書によれば、この時代の「取税人」とは、情け容赦なく理不尽に取り立てた税金で私腹を肥やし、人々の激しい憎しみと蔑視を受けた職業だそうだ。人々から嫌われ軽蔑される職業に就いている自分を、マタイは自己蔑視したに違いない。そんなマタイの姿を見たイエス様は、「わたしについて来なさい。」(9節)と声をかけられた。彼は立ち上がって従った。どんな気持ちでイエス様について行ったのだろう。マタイの心情を思うと、私は胸が熱くなる。
人間は、小さい者、弱い者、能力の劣った者を不当に扱い、蔑視する傾向がある。イエス様は、このような人たちを決して邪魔者扱いせず、他の人々と変わりなく愛し、尊重される。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」(12節)
自分の力だけでは乗り越えられない弱者を救うために、天のお父様、イエス・キリスト、聖霊がいてくださり、私たちは希望を抱いて生きていられる。
聖書の中で、最初の神様のことばは、「光、あれ。」(創世記1章3節)
イエス様に従う私たちは、神の子どもとなる特権を与えられた。希望を失い、混乱している時代の中で、世の光となって働き続ける者でありたいと思った。
祈り:
慈しみ深き友なるイエス様。私のおごり高ぶる罪深さを赦してくださり感謝します。私たち人間の弱さを知っていてくださり、いつも力強く励ましてくださることに感謝します。今日も立ち上がって、あなたに従う者でいられますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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