2021年8月12日 ディボーション

マタイの福音書8章 


「山上の教え」が終わり、イエスは山から下りて来られた。その教えに驚嘆していた大勢の群衆たちは、群がるようにしてイエスに従って行った。

 この8章と9章の中には、イエスの成された12の奇跡が記されている。奇跡とは、単に群衆の歓心を引くためのものではない。それはイエスこそ待ち望まれているメシヤであることを現わすためのものである。

 8章17節の「これは預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。』」の御言葉は、まさにその事を現わしている。


 マタイが最初の奇跡として記したのは、ツァラトに冒された人の癒しである。「私の心だ、きよくなれ」(3)がその始まりである。

 このイエスの心は、すべての奇跡の中に込められている。当時の法律によれば、ツァラトの人には触れてはいけない、近づいてはいけないのだ。それは感染を防ぐという意味もあったであろう。しかしイエスは大勢の人々の目の前で、この人に「手を伸ばして、彼に触った」(3)のだ。

 イエスは、その病をご自身の身に負った、ということを身をもって現わされた。イエスの心とは、まさに十字架の心、イザヤ53章に預言された「苦難のしもべ」の心なのだ。


 私たちは、奇跡の出来事はもちろんだが、それ以上に、その奇跡を起こしているイエスのお心に想いを向けていきたい。イエスは、どんなお心で、この奇跡をおこなったのだろうか。

 今も、イエスは私に向かって手を伸ばしてくださり、私の上に御手を置いてくださり、私に触れていてくださる。私の傷に、汚れに、弱さに、罪深さに、主の御手が置かれている。主の御手の温かさ、大きさ、柔らかさ、その御手から伝わってくる主の愛‥‥。

 今日もイエスのお心を受け取り、そのお心に生きていきたい。


祈り

 天の父なる神さま。主が今も、私の上に御手を置いてくださっていることを感謝します。その御手からあなたの愛が伝わってきます。どうか、あなたのお心の中に生きることができますように。弱き私を導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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