マタイの福音書 7章
「ですから、人からしてもらいたいことはなんでも、あなた方も同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」12節
取税人であったマタイはこの福音書をA.D.37-40頃に書き残したと言われている。昔取った杵柄。マタイは細かく、かつ分かりやすくイエス様が生きた時代の事柄を綴ってくれている。これも主の御計画。本当に主のお考えに無駄はない。彼の教えは時代が変わろうとも色褪せることがない。
私もマタイのように細かい事が気になる。それは神様から私がいただいたタレントだから仕方がない。大好きな刑事ドラマの主人公、右京さんの気持ちがよく分かる。気になると調べずにはいられない。
山上の垂訓は5章から始まり、7章で終わる。この中にはこのような事がまとめられている。
1、9つの祝福の下にある天の王国の民の性質(マタイ5:3~12)
2、 天の王国の民のこの世に対する影響 (5:13~16)
3、 天の王国の民の律法に関して (5:17~48)
4, 天の民の義なる行為に関する事。(6:1~18)
5, 王国の民が財物を取り扱う事。(6:19~34)
6, 王国の民が人を取り扱う原則に関して (7:1~12)
7, 王国の民の生活を働きの土台に関して (7:13~29)
(1の9つの祝福が何かは、お時間があったら是非探してみてください)
気になる部分をより深く読み込むと沢山の発見があると思う。それは神様がそれぞれに必要と思われる箇所を心に語りかけてくれるから。
イエス様の御言葉である12節(黄金律、ゴールデンルール)に忠実に生きるなら、私は人と自分が違う事に対して裁を下すべきではない。(1節)そのような考えを持つ事自体罪である。なぜなら、私の中に生きる主の宮、王座にはイエス様、そして父なる神が座し、その教えをもとに日々生きるのがイエス・キリストを信じた者だから。私が罪を犯すとき、他人を批判したり、自分を卑下したりする時、その王座には私が座っていることになる。そして神の人格を否定している事になる。この章を通してその事を語られた。
「ですから、すべて他人をさばく者よ、貴方に弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」ローマ2:1
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます」(24節)とイエス様はおしゃった。
例え、世の中での人々が大多数で同じ事を言っていたとしても、私は主の教えを、岩の上にたった信仰を胸に王座にいらっしゃる父なる主とイエス様に従っていきたい。
●祈り
「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵の上にさらに恵を受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:16~17)
天の父なる神様。今日も貴方の御子、イエス様の十字架の贖いによって貴方の子とされ、貴方の御言葉の恵みを受ける事ができる幸いを感謝いたします。貴方の言葉には力がある。こうやって貴方の御言葉といつも一緒に立ち、心が揺るがないように私を捕まえていてください。なぜなら私は弱く、すぐに脇道に逸れてしまうからです。そして私は貴方の御言葉を乞い求めます。貴方のドアを叩いて求めます。どうぞ、こんな私でも貴方の御用のために何ができるのか示し、導いて下さい。
感謝して、主・イエス・キリストのお名前を共に、御前にお捧げいたします。
アーメン。
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