ヨブ記16章
人をなぐさめるつもりが、逆に苦しめてしまうことがある。人の助言に励まされることもあるが、ときには深く傷つくこともある。
繰り返される友人たちの的外れな忠告に疲れ果てたヨブは、自分の心情を吐露する。
「あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ。」(2節)
また、悲嘆にくれるヨブの不満が、激しい言葉によって表現される。
「彼らは私に向かって大きく口を開け、そしりをもって私の頬を打ち、こぞって私を攻める。神は私を不遜な者に引き渡し、悪しき者の手に投げ込まれる。」(10〜11節)
この箇所は、「正しいイエス様」が「正しくない者たち」によって十字架につけられる場面と似ているなと私は思った。
心身ともに疲弊し、心のうちを包み隠さず述べ、感情を吐き出した後、ヨブが言う。
「今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。」(16章19節)
少し前の章では、ヨブの発言はこうだった。
「私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。」(9章33節)
「仲裁者がいない」から「保証人がいる」に変化したヨブの言葉。
いつまでたっても苦しみから解放されず、生きることに絶望している者にとって、たったひとつの希望の光がイエス様(仲裁者・保証人)であることを、私は身をもって体験した。
私は小学生の時、テストで満点を取らなかった罰として、父からベルトでムチ打たれ、庭の犬小屋に3日間閉じ込められ、お湯を張った浴槽に何度も顔を沈められた。今思えば、あの頃が人生で最も苦しい時だったと思う。神様はなぜ、私を虐待する父を止めてくれなかったのか、なぜ私を助けてくれなかったのか。長い間見つけ出せなかったこの問いへの答えが聖書に書かれてあり、私はクリスチャンになる決心をした。私と神様の間に立ち、とりなしをしてくださる保証人イエス様が、人生の道しるべとなった。耐えられないほどの苦悩の中を歩く時、神様は背負ってくださる。私はそう信じている。
「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」(イザヤ書46章4節)
祈り:
私の苦難を祝福に変えてくださったイエス様。あなたの無限大の愛に、感謝の気持ちでいっぱいです。今日も1日、神の子らしく光の中を歩む事ができるよう、私に寄り添い励まして下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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