2021年7月8日 ディボーション 

ヨブ記15章


 15章では、再びテマン人エリファズが登場する。

 その前にヨブは、次の言葉を繰り返している。12章3節「私にも同じように良識がある。私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか。」

 13章2節「あなたがたが知っていることは、私もよく知っている。私はあなたがたより劣っていない。」

 そしてエリファズも答える。15章9節「あなたが知っていることを、私たちが知らないとでもいうのか。」


 ヨブとエリファズの苛つきが伝わるようだ。お互いの言いたいことは「あなたの言っていることは、私だって知っている。当たり前だろ、そんなことは分かっている。」ということだ。

 これまでのヨブの言葉も、友人たちの言葉も、それ自体は正しことを言っている。一節一節だけを見れば意味深い言葉がたくさんある。

 しかし全体のやりとり見ると、ヨブと友人たちは、どちらの方が神を知っているかという争いになってしまっている。「私の方が知っている」という動機によって語るのだから、彼らの言葉は虚しく響く。どんなに神について言葉を尽くし、美しく、深遠に、詩的に表現しても、かえってその言葉が相手との関係を壊し、相手を追い詰めていくことになる。


知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」(1コリント8:1)

 まさにヨブと友人たちの「自分の方が知っている」という争いは、いよいよお互いを高慢へと導く。論争すればするほど、お互いの高慢が際立ってくる。そしてとうとうヨブは、神より自分の方が正しいとして、その知識が高ぶりの極致まで達してしまうのだ。

主を畏れることは、知識の初め。」(箴言1:7)とあるように、ヨブと友人たちは、神についての正しい知識を語っているようで、主を畏れることがない。だから、その知識で相手を追い詰め、傷つけてしまうのだ。


「そこに愛はあるのか…」


 私も、「自分は知っている、分かっている」と思う時がある。「そんなことは言われなくても分かっている」と言いたくなる。でもその時の自分とは、何と愚かな者だろうか。そのような自分の知識は、結局、相手を傷つけてしまうことが多々ある。


 人を生かし、育てるのは、やはり愛なのだ。知識よりも愛なのだ。


祈り

 天の父なる神さま。私が、知識ではなく、愛に生きる者としてください。その時、知識も愛するために用いられることを信じます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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