2021年7月7日 ディボーション

ヨブ記 14章


『ヨブの霊的同伴者になりたい』


『弱り目に祟り目』『傷口に塩を塗る』『泣きっ面に蜂』困っている時に、さらに災難が重なる、不運が重なる事を表現することわざがある。今のヨブは全く役に立たない、まさにこのことわざのような事をする3人の友人に心を傷つけられる、いやもはや私だったら友人と呼びたくない。

 年長者のエリファズ。「私の見てきたところでは」(4:8) と彼が見た幻の話をする。ビルダデは「さあ、先人に尋ねよ」(8:8) と過去にあった事を例に諭そうとする。最後に教条主義のツォファルは「あなたは神の深さを見極められるだろうか」(11:7) と「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(1:8) と神様が認めているヨブに助言をする。しかしそれはヨブは求めていた事なのか。霊的同伴者には全く対極の友人たち。そんなおせっかいの人の言葉にヨブの心が折れてしまった。


私の罪に目を留めないでください。

私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください」(16〜17節


 ヨブ記を毎日読むたびに、日本で、世界中で困難の中にある友人たちの事が心の中に浮かぶ。今の私に何ができるのかと。主から認められるほどの素晴らしい信仰者ヨブ。そんな人でさえ心が折れてしまったのだ。ましてや信仰の無い人が心折れて、肉体的、精神的に病に陥るのは不思議ではない。それに対して私たちが出来ることは、病院を紹介する事、ああしろ、こうしろ、と3人の全く役に立たない友人のような助言ではない。なぜなら、それまで苦難にある人はそれなりに努力して頑張っているから。

 私が勤めた病院の接遇の勉強会で何度も言われたことがある。『患者様に頑張ってと言ってはいけない』なぜならそれまで患者様は一人で頑張ってきたから。心折れて助けを求めて私たちの元にきたのです。そんな人にできる事は寄り添って、痛い足をさすってあげる事。背中をさすってあげること。ただ聴き役に徹する事なのではないだろうか? そして主の御言葉によって相手の心が主に満たされる事を祈ることができる。


 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、わたしの重荷は軽いからである。」(新共同訳 マタイ11:28〜30)

 人が善い事を選択することは難しい。正しい選択をできるようになる能力も神様から与えられる事。ヨブのような、今まで見たことも無いような状況の人に何ができるのか私も悩んでしまう。しかしそんな時に私は祈って、苦難にある人と賛美して共に歩む者になりたい。


●祈り

 天の父なる神様。今日も沢山の学びをありがとうございます。私は欠けのある、足りない器です。そんな無力の私ですがどうぞ用いて下さい。私が苦難にある人に何をすべきかどうぞ語りかけてください。

幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座につかない人。

主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。

その人は 流れの辺りに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」(詩篇 1:1)

 主イエス様のお名前を通して御前にお捧げいたします。アーメン。


『主を仰ぎ見て』と言う賛美を苦難の中にある友人たちに送ります。




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