ヨブ記11章
ヨブの三人の友人の最後の一人であるナアマ人ツォファルが語った。彼は二人の友人の中でも一番ひどいことを言っている。
「ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。あなたの無駄話は、人を黙らせるだろうか。あなたが嘲るとき、あなたに恥を見させる者はいないのだろうか。」1節〜3節
ツォファルのことばはヨブに対してあまりにも批判的で、まるで上から目線で語っている。ヨブは決して、ことば数が多かったのではない。つまりおしゃべりではなかったのだ。
ヨブのことばの中には神への礼拝もあったのである。
語られたことは、三人の友人はあくまでもヨブがただ罪の為にこんな苦しいめにあっていることを主張するだけで、友人としてヨブの身になって共に祈ってあげられなかったことである。
ヨブはそれを望んでいたのではないだろうか。神様は、ヨブに試練を与えられていると同時に
この三人の友人達の信仰も試されておられたのではなかったのだろうかと思わされた。それは、
まるで私達自身にも言えることではないだろうかと示された。
私達も人が困難な苦しみの中にある時にヨブの三人の友人のようにではなく、困難な苦しみにある人と同じように苦しみを分かち合い、祈り合うように歩みたいものである。イエス様が石打の刑にある女の近くで、膝を落とされてかがんでおられる光景が思いだされる。その時、イエス様はご自身にも石が飛んでくることを覚悟の上でなされたことでしょう。それが他者を思いやる十字架のイエス様の愛である。
祈り
天の父なる神様。この世で生きていくということは大きな試練や困難な問題にぶつかることが
多々にあります。他者の苦しみは時として助けることができない場合もあります。その時は、
どうぞ、その苦しみを分かち合い祈ってあげることができますように導いてください。
感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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