ヨブ記36章
いよいよヨブ記も佳境に入ってきた。38章でとうとう神ご自身が登場する。その前に、32章から37章の5章に亘って、エリフの言葉が記されている。
彼の言葉と3人の友人との違いは、3人の友人がヨブを罪に定めることに焦点を当てているのに対して、エリフは神ご自身に焦点を当てている点にある。
36章において「しばらく待て。あなたに示そう。まだ神のために言い分があるからだ。」(2)さらに、5節以降、「神は」という主語が続く。その内容は、神の義、神の全地全能である。
後に3人の友人に対して、神は「わたしについて確かなことを語らなかった」(42:7)と言われているが、エリフは、その中に入っていない。
3人の友人は、私たちの反面教師のように見えたが、このエリフは、大切なことを私たちに教えてくれる。
私たちは、苦しみの中にある他者に関わるとき、神ご自身に想いの焦点を当てることが大切だということだ。不条理に対する答えを求めたり、まず結論ありきの論理で話したり、私たちは様々に考える。しかし、大切なのは、今ここにおられる神の臨在を見出すことだ。
大切なのは神の臨在であって、一方的に「神についての正しい知識」を語ることではない、それもまた正しい教理の押し付けでしかない。3人の友人たちも「神」という言葉を多用しているが、それは「神についての知識」であって、「神ご自身」を示しているわけではない。
神の臨在を見出すということは、今のこの時を生きる者たちの、その人生の物語の中に「神は」という主語を挿入することだ。「神について」ではなく、「神を」示すことなのだ。
「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。」(箴言3:6)
私が他者と関わるとき、私の知識、経験、自分の常識よりも、ただ主の臨在を認めることができますようにと心から願う。そのような霊的な導きが出来るように、成長していきたいと心から願う。
祈り
天の父なる神さま。私たちの霊の眼を開いてください、他者と関わるとき、そこに主の臨在を見出すことができますように。あなたは、すべての道におられるのですから。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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