ヨブ記32章
3人の友人達がヨブに応答するのをやめた時に、この口論をずっと見守って聞いていた若者のエリフが口を開いた。このエリフという若者はラム族のブズ人、バラクエルの子である。
エリフはヨブと3人の友人達に対して怒に燃えて語るところから始まる。
ヨブに対しては、2節で、「ヨブが神よりも自分自身のほうを義とした。」 ので怒りを燃やした。そういうことは、クリスチャンなら口がさけても口にするものではないことだから、エリフの言っていることは的を射っていると思う。そして3人の友人達には、3節で、「彼らがヨブを不義に定めながら、言い返せなかった。」ので怒った。これも納得がいくことである。
だが、エリフはヨブが神よりも上にいるという、とんでもないことを言ったので怒ったことについては確かに一理あることだけど、怒りを燃やして語る、ということについてはいささか同意しかねない。
自分も以前は怒りの子で、いつも怒ってばかりいた時があった。怒れば怒るほどすべてが空回りして空しくなったことがあった。クリスチャンになっても怒ることは常にあるけど、そういう時にはみことばにすがって祈り歩むことをするということができるようになったことは実に感謝なことである。
「人の怒りは神の義を実現しないのです。」 ヤコブの手紙 1:20
エリフは、8節で、「確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える。」これは聖霊の働きを言っている。9節、「だが、年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえているわけではない。」と語っている。さらに、14節で、「私はあなたがたのような言い方では彼に答えることはしない。」と、まるで自分はあなたがたより勝っているといわんばかりの若者の熱血感溢れんばかりの答えのようである。エリフの高慢がそこにはあった。でも、21節、22節の語りで、「私はだれも、えこひきしない。どんな人にも、へつらったりしない。私はへつらうことを知らないし、そんなことをすれば、私を造った方は、すぐにでも私を取り去ってしまわれるだろう。」神を恐れることを知っているエリフの半面も知って3人の友人達よりはいいかなと思わされた。
私達にもエリフのようになることは多々に起こりうることである。第三者になった時の態度は、自分が勝っていてその仲介者に選ばれたという高慢に陥りやすいものである。そのような時には、神を恐れることを覚えて、イエス様に、祈り、悔い改めて、正しい道へと導いていただけることである。
祈り
愛する天の父なる神様。私はかつては怒りの子でした。本当の愛が解らない人でした。でも、今はイエス様の十字架の愛によって愛がわかる者へと歩ませていただいています。時には、挫折してあなたの愛が見えなくなる時があります。その時は、どうぞ見えなくしているものから私を助けていつも十字架の愛の見える者として導いてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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