ヨブ記29章
29章は、ヨブが過去の憧憬を思い浮かべながらの独白だ。
ヨブは、「ああ、出来ることなら、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。あの時は…」(1~3)と、過去に想いを向ける。
「私がまだ壮年であったとき、私の天幕の中には神との親しい交わりがあった。全能者がまだ私と共におられたとき、私の子供たちが周りにいた。」(4,5)
さらに、「私は、義をまとい、義は私を覆った、私の公正さは上着であり、かぶり物であった。」(14)その正しさとは、苦しむ者、孤児、未亡人、身体障害者、貧しい者、搾取されている者…、そのような人々を助けたからだと、ヨブは言う。
このように、神との親しい交わりがあり、子供たちも幸せで、正しく生きていたヨブ、なんと輝きに満ちた素晴らしい日々であったろうか。
それがなぜ? なぜ、こんなにも苦しみを受けなければならないのか!
この世の中は、不条理に満ちている。矛盾だらけだ。答えがない。にもかかわらず、無理矢理に答えを押し付けてくる友人たちがいる。
ヨブが、過去の憧憬を思い浮かべている気持ちは、いかばかりだろうか。神と親しく交わり、子供たちが周りを嬉々として走り回り、多くの人々に尊敬され…、しかし、過去を振り返っても、そこに答えはない。
この不条理に答えはあるのか。この矛盾に解決はあるのか。
私は、まさに不条理としか言いようのない、答えのない苦しみを経験されている方の話を聴くことがある。その方々が、なぜか感謝と賛美に満ちていることがある。
なぜ、この状況で神に感謝と賛美を捧げることができるのか?と、私は「なぜ、できるのか?」と考えてしまう。しかし、そこに答えはない。
その方々を見ていると、「***だから出来ている」ではない、理屈抜きに、ただ感謝と賛美が溢れてくるのだ。その方々が感じているのは、ただ「臨在」である。主が共におられる、この事が、感謝と賛美を生じさせるのだ。
だから、これはマニュアル化できない。苦しい時でも、***すれば感謝できる、賛美できるという、方法論を作ることはできない。
ただ確かなことは、主の臨在に包まれるとき、人は、その苦しみのただ中にあって、感謝と賛美に溢れる者になるのだということだ。
私の妻が、余命宣告を受けた中で、賛美しながら手術室に入って行った、その光景は、まさに主の臨在のなせる業である。
Jesus is the answer.これがすべての答えなのだと思う。
祈り
天の父なる神さま。私たちは、人生の不条理、矛盾に悩みます。答えがないことが、さらに私たちを追い詰めます。しかし主よ、あなたが答えです。あなたご自身が答えなのです。主よ、感謝します。主の臨在があることをありがとうございます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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