ヨブ記9章
ヨブは、答える「その通りであること、私は確かに知っている」(2)。つまり、神は絶対的に正しいということを知っているというのだ。
ヨブは、測り知れない神の偉大さを告白する。「大いなることをなさって測り知れず、その奇しいみわざは数え切れない。」(10)
そして言う「たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がった者とされる。私は誠実だ、しかし私には自分が分からない。」(20、21)
ヨブは、神は正しく罪を罰せられる方だと分かっている。しかし、自分には、罪はないと思っている。その罪なき正しい者を、神は罪ある者とする、ということを言っているのだ。これがヨブの苦悩だ。
この罪の罰としてこの苦難を受けていると、その原因が分かった方がよほど楽なのだと思う。
神は正しい、罪を罰する神だ。しかし、私には罪はない。にもかかわらず私は苦難にあっている。それはなぜか? 神は正しい者を、無理矢理に罪ある者とするのか‥‥。
「私には、自分が分からない」と、ヨブは大混乱している。論理の整合性がつかないからだ。矛盾しているからだ。この矛盾を解くカギは、どこにあるのか?
ヨブは、この9章において、ヨブ記の一つの頂きと呼べる言葉を述べている。(ヨブ記は、山脈のように幾つかの頂きがある。19章25節も一つの頂だ。そして最後に最高峰に達する。)
それは「私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません」(33)という言葉である。
「仲裁者がいない」これが、ヨブの大混乱、苦悩に陥る原因なのだ。仲裁者とは、イエス・キリストのことである。
「神は、唯一です。神と人との間の仲介者(仲裁者)も、唯一であり、それは人としてのイエス・キリストです。」(1テモテ2:5)
先日のブログを読み返していただきたい、仲裁者(イエス・キリスト)によって、苦難、矛盾、不条理が解決されるのだ。
「仲裁者がいない」これは、とてつもなく重たい言葉だ。でも私は「仲裁者いる」という信仰に生かされている。どちらの言葉に生きるかで、その人生はまったく違ったものになるだろう。
私には、イエス・キリストという仲裁者がおられる。この恵みに生かされていることを心から感謝したい。
祈り
天の父なる神さま。私には、仲裁者であるイエスさまがおられます。この事がどれだけの恵みであるか、もしあなたがおられなければ、私はいまだに矛盾と不条理の泥沼にはまっていることでしょう。この泥沼から救い出してくださったことを感謝します。これからもイエスさま、あなたと共に歩んでいきます。感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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