ヨブ記25章
シュアハ人ビルダデの応答で始まる。
ビルダデの語りはこれが最後となり、他の二人の友人達の語りもその後は出てこない。この章でビルダデの語っていることはヨブに対しての望み無き答えに受け取られた。ビルダデと他の友人達の語りは、因果応報思想でヨブに語ってきたが、ヨブが求めている真の解決とはかなりかけ離れていた。「罪無き者がどうして苦しまなければならないのか、神はどうして答えてくださらないのか。」一方の三人は、「お前が罪をおかしたから、悔い改めないから、神の応答がないのだ。」と迫っている。
この三人のヨブに対する応答を振り返ってみると、彼らは、罪という事だけにとらわれてしまって大切なことを語ることができなかった。誰一人としてヨブの身になってヨブの声を真剣になって聞いてあげることができなかった。痛みを労わってあげることができなかったのである。罪人であるかないかは、天におられる神様ただお一人が決定されることである。私達も、他者に対してこの友人達のようにいとも簡単な行動、ことばを投げかけることがある。慰めているつもりが、ついことば数が多くなり相手を窮地に追い込むことも無きにしも非ずである。
「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」ローマ10:17
他者が苦しんでいる時にできることは、やはり他者の苦しみの嘆きを聞いてあげることではないだろうか。ことば数が多いというものではない。ことばはなくても、まず聞いてあげることが相手の苦しみ、嘆きに共感できることではないだろうか。自分自身に語られることでもある。
ヨブの時代は、聖書もなくイエス様もまだ誕生していないだけに分からないないことだらけで、それぞれの各自の憶測からの応答だったと思う。でも、祈ることはできたのではないだろうか。なぜ祈れなかったのだろうかと思った時にそれは、やはり罪ということだけに支配されて苦しんでいる友への真の行動を見出すことができなかった為ではなかったのだろうか。何かに支配されるということは正しい決断が閉ざされてしまって、自分自身を見失うものである。私達にも起こりうることである。そのようなことになった時にどうするかを見出すには、常に神に祈り求めていくことである。神は、私達の祈りに応えてくださるお方である。
祈り
ハレルヤ!愛する天の父なる神様。あなたの御名を心からほめたたえます。
ヨブ記を通して、たくさんのことを語ってくださって心から感謝します。
ヨブの友人達のように私も何かに支配されることがあります。その時にはどうぞ私を助けて、正しい方向に導いてください。
感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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