2021年7月17日 ディボーション

ヨブ記24章


『なぜ、さばきの時を定めていないのですか?』


●学んだこと:


 前章までヨブは自分自身のことを訴えていた。しかしこの24章では一転、社会に目を向け、ヨブの時代の貧困や犯罪をあげつらう。ヨブは世の中をよく見ており、闇の側面も知った上で客観的に語る。

 その世相が現代の、私たちが生きている格差社会や汚職、差別とよく似ているのだ。

 去年日本で「うっせぇ うっせぇ うっせぇわ」と、少女が歌う曲が大ヒットした。閉塞した社会に対する憤懣を爆発させたような曲だったが、ヨブならきっと一緒に歌うだろうな。

 ヨブの時代から2千数百年経っても、世の中はちっともよくならないばかりが、陰湿悪質化している。神さまのさばきは下されないのか? さばきの時はいつなのか? なんだか私もヨブと同じ気持ちになる。

 イエスさまを知ったクリスチャンとして、「下には永遠の腕がある。」(申33:27)という礼拝の恵みに、アーメンしたばかりなのに、ゆだねきれない。

 デルタ株が蔓延するインドネシアや南アフリカのニュースを観て、「主よ いつまでですか」(詩13:1)と不安を覚える。憤慨しても、さばかないクリスチャンを装っている。”自分ごと”じゃないからと、そつなく祈っておしまいにしている私がいる。


 18節から24節まで、語りの調子が急に変わる。主語がヨブではなく「」になっている。友人たちのことだという解説が複数ある。でも友人らは後に全員フェードアウトするので、”その後”、さばかれるか否かの消息は、分からずじまいだ。

 意味としては、「悪事で土地や富を手に入れた者は、夏の日照りが雪解け水を蒸発させてしまうように、神さまのさばきによって、よみ(死)に追いやられる。神さまはしばし不正のままにさせるが、やがて根こそぎさばかれる末路だ。」ということだろうけれど、なにをどう理解したらいいのか分からなくなってしまった。

 最後25節でヨブは問う。これは分かった。

だれが私をまやかし者だと言えるのか。だれが私のことばをたわごとと見なせるのか。

 ヨブ、非難なんかしないよ。今日のヨブに私は共感するよ。


●祈り:

 神さま、ヨブは自分のことは棚に上げて、世の中の不正に責任転嫁した、ということなのでしょうか? 私はそうは思いたくありません。今日はヨブの味方になりたいです。

 私がヨブの時代の虐げられた人のように、飢餓にあえぎ、着るものもなく困窮してもなお、神さまの主権と不可侵をあがめ、へりくだれるか、できる自信は全くありません。ヨブよりもっと、自分を正当化するでしょう。それほどに弱い者です。どうかあわれんでください。

イエスさまの御名で祈ります。アーメン


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