ヨブ記22章
ヨブと3人の友人とのやりとりが繰り返される。22章はテマン人エリファズの答えが記されている。21章のヨブの答えに対して、エリファズは「いや、それはあなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がないからではないか。」(5節)と答える。そして6節以降では、ヨブに対して、あなたは疲れている者、飢えている者、やもめ、みなしごから搾取し、虐げたと指摘し、「そのために罠があなたを取り巻き、恐れが突然あなたを脅かすのだ。」(10節)と結論づける。
ヨブが頑として自らの正しさを主張するので、エリファズはありもしない事を並べて、ヨブには悪があるはずだと無理矢理に論理の整合性を付けようとしている。
彼らの論理とは、「このような苦難があるということは、何か神に裁かれる悪があるはずだ」という事である。
まず先に自分の論理があり、その論理に実際の状況を無理やりに当てはめようとする。先に結論ありきなので、いくらヨブとやりとりしても両者が一致することはない。
しかし、ヨブも3人の友人と同じ論理を持っている。そこは同じなのだ。だからヨブの悩みは、どう見ても自分の中に悪を見出すことができない、にもかかわらず、なぜ自分にこんな苦しみが襲ってくるのか、という「矛盾」に対することなのだ。ヨブもまた、論理の整合性がつかないのだ。
ヨブの場合も、3人の友人と同じく自分の論理を優先させて無理矢理に納得しようとする。ヨブの場合は、正しい者を罰する神が悪なのだと、かなり無理な意味付けをしてしまう。後に神に「自分を義とするために、わたしを不義に定めるのか。」(40:8)と言われてしまうのだ。
ヨブと3人の友人の問題は、足りない知識にもかかわらず、「**なはずだ」という論理、先入観を持っていることだ。そこを手放すことが出来たら、両者ともに楽になれるのにと思う。
私も、自分は分かっている、知っている、これは***なはずだという、先入観を持っている。この先入観は、自分にとっては当たり前、普通のことなので、それを持っていることに気づくことは案外と難しい。自分の先入観を話すときによく使うセリフは「みんなも、そう思っている」という「みんな」という言葉だ。
それが普通でしょ、当たり前でしょ、あなたのその考えは間違っている「みんな」がそう思っていると。
そのような先入観を持っていると、コミュニケーションはうまく行かないことが多い。自分の論理、先入観を手放して、イエスの心で物事を見ていきたいと思わされる。
祈り
天の父なる神さま。私が、自分の論理と先入観で、人や物事を判断することがありませんように。虚心坦懐になって、あなたの心で判断ができますように、どうか私に自分を見つめる冷静な心を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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