ヨブ記8章
テマン人エリファズに対してのヨブの答えに続き、8章ではシュアハ人ビルダデが登場する。
「いつまで、あなたはこのようなことを語るのか」(2)と語り始める。彼はヨブの言い分を認めようとはしない。
「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか」(3)と、神の義(正しさ)を強調する。
そして「もし」という言葉が3、5、6節と続く。「もし、あなたが純粋で真っ直ぐなら、今すぐ神はあなたのために奮い立ち、あなたの義の住まいを回復されるだろう。」(6)
つまり神は義である、しかしヨブは、純粋で真っ直ぐではない(義ではない)。だから、このような神の裁き(苦難)が降っているのだということだ。
「因果応報」という言葉がある。結果には原因があるということだ。悪い結果があるということは、悪い原因があるに違いないと考える。確かに一理ある。種をまけば、その実を刈り取ることになる。良い種をまけば良い実を刈り取る、逆もしかりだ。これは一つの法則である。
私たちは、この法則の中に生かされている。ただ、この法則に対して、別の法則、もっと強力な法則が現れるとき、また違った事が始まる。
「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:2 共同訳)
確かに「因果応報」「種まきの法則」とは、その通りである。「人間は罪を犯した、だから裁かれる」というのは事実なのだ。しかし、その罪と死の法則に対して、もっと強力な法則がキリスト・イエスにある命の霊の法則なのだ。
例えば、私たちが重力の法則の中に生きていて、どんなに飛び跳ねても必ず下に落ちるという事と同じだ。例外は一人もいない。ただしロケットエンジンを持つと、重力の法則を打ち破り無重力の宇宙へ飛び出すことができる。
キリスト・イエスにある命の霊の法則とは、まさに罪と死の法則を打ち破る、圧倒的に強力な法則なのだ。
ヨブ記におけるヨブと3人の友人のやり取りにおける行き詰まりは、罪と死の法則に生きている人間の限界なのだと思う。私も、神から裁かれて当然、罰を受けても当然と言えるような人間である。しかし、命の霊の法則に生かされている私は、その当然が当然ではなくなったのである。裁かれて、罰せられて当然の者が、「にもかかわらず」生かされているのだ。「命の霊の法則」とは、恵みに生かされることだ。
渋柿の種を撒いたら、渋柿が実る。それは法則だ。しかし、その渋柿を温かい太陽の光に当てるなら、それは甘い干し柿となる。私は、まさに渋柿だった、しかし今は甘い干し柿に変えられた。
「因果応報」「種まきの法則」に、イエスの十字架の恵みが介入するとき、新しい生き方が開かれていく。私は、「キリスト・イエスにある命の霊の法則」に生かされていることを心から感謝したい。
祈り
天の父なる神さま。私は、キリスト・イエスにある命の霊の法則に生かされていることを感謝します。罪と死の法則から解放されました。ハレルヤ! 渋柿のような自分を、甘い干し柿に変えてくださいました。これからも、この恵みに生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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