ヨブ記4章
4章から31章までは、ヨブと3人の友とのやりとりが記されている。テマン人エリファズ、ナマン人ツォファル、シュアハ人ビルダデである。
最初に登場したエリファズの言いたいことは、「さあ、思い出せ。だれが潔白なのに滅びた者があるか。どこに真っすぐなのに絶たれた者があるか」(7)ということだ。
ヨブと3人の友人の前提となっている考えは、「苦難は、罪に対する神の裁き」ということだ。4人とも同じ考えを持っている。
ヨブの苦悩は、どうしても自分の内に罪を見出すことが出来ないところにある。だから分からない、納得できない、理解できない、どうして私にこのような苦難が襲ってくるのかの答えが得られない、これが根源的なヨブの苦悩なのだ。
そのヨブに対して3人の友は「いや、何か罪があるはずだ、ヨブよ、それを認められないのか」ということなのだ。
しかし、その論理はヨブにも分かっている。いっそのこと、この罪のゆえにこのような苦難にあっているのだと、苦難の原因が分かった方がよほど楽なのだ。
このように3人の友は、なんとかヨブに罪を認めさせようとするが、神は、テマン人エリファズに対して、「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。」(42:7)と語られている。
「苦難は、罪に対する神の裁き」とは、決して正しい前提ではないということだ。
私の人生にも、答えのない、理由の分からない苦難がいくつかある。当事者ではなくても、ニュースを通して、人生とは何と不条理かと痛感することも多々ある。
その苦難の中で、確かに「理由が分からない」というのが、実はとても辛いことなのだと実感する。身体的にもそうだ。痛みがあるのに原因が分からないことがある。何件が病院を廻って、やっと原因が分かったときにホッとする。病気があること自体は辛いことだが、原因が分からないことはまた別の辛さをもたらす。
人生の苦難に対しても「なぜ?」に対する答えが欲しい。でも答えはない。だから無理矢理に納得できる答えを造り出そうとする。ヨブの友人のように、「罪があるはずだ」とか、ヨブのように「神が悪い」ということで納得しようとする。しかし、それらは決しては正しい答えでなかった。
分からないこと、隠されていることは、そのままでいい。明かされる時が来れば、すべてが分かるのだろう。その時が来なければ、それでもいい。
ただ確かなことは、神は正しいお方、神は良いお方、神に間違いはないということだ。「すべてを分かりたい」という欲求さえも捧げて、ただ主に信頼していきたい、そのように思わされた。
祈り
天の父なる神さま。人生は、矛盾と不条理に満ちています。答えのない出来事の方が多いです。でも、すべてに納得できる答えを求めることはいたしません。ただ私が知るべきことだけを知ることが出来ますように。私は、主よ、あなたに信頼いたします。あなたは、正しく、良いお方です。この平安を感謝します。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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