ヨブ記2章
さあヨブ記が始まる。
ヨブ記のテーマは「神義論」と呼ばれる。「神義論」とは、「全地全能なる神、愛なる良い神がすべてを支配しているのに、なぜこの世に悪や苦難があるのか」という問いに答えようとするものだ。
宗教や哲学とは、この答えを求めることから生み出されると言っても過言ではないだろう。それだけ人類を悩ませ続けてきた命題なのである。
ヨブという正しい人に、なぜこのような苦難が襲いかかるのか。神は、なぜそれをお許しになるのか。
この後に登場する三人のヨブの友人たちは、このような苦難に遭っているのは、何か理由があるはずだ、それはヨブに何か罪があるからに違いない、その罪に対する神の罰なのだという前提で話をする。思い当たることのないヨブは、自分は正しいと主張し、最後には、正しい自分に苦難をもたらす神が悪いと、その主張はエスカレートしていく。そして最後に、神が直接介入されて、ヨブは神の御前にひれ伏していく。
2章では、ヨブに襲いかかった苦難が記されている。その苦難の中にいるヨブに向かって妻は「神を呪って死になさい」(2:9)と言った。これがゆえに、ヨブの妻は世界三大悪妻に数えられることがある。しかし、そう言われるほどに、ヨブの状態は最悪だったということだ。
しかしヨブは、次のように答えた。
「しかし、彼は妻に言った。『あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。』ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。」(2:10)
冒頭の「神義論」の論点は、つまりこのような苦難をもたらす神は悪ではないなのか? 神は本当に義なのか? という神に対する不信、疑いをどのように乗り越えるかということなのだ。
しかしヨブは、この苦難の中でも、神が義であることを疑わない。そこは揺らぐことがない。
私は、このような理不尽極まりない、不条理としか言いようがない苦難の中で、それでもなお、「神は正しい」と言えるだろうか。それは、その状況になってみなければ分からない。
それでは、ヨブほどの苦難に遭っていない今、私は「神は正しい」と言えるだろうか。今言えなければ、その時に言えるはずがない。
確かに「神は正しい」。私には理解不能な事がある。理由が分からない事がある。しかし、やはり「神は正しい」。
そう告白したとき、なんとも言えない平安に包まれた。
祈り
天の父なる神さま。いつでも、どんな時でも、「神は正しい」と言える自分でありますように。事実、主よ、あなたはそうなのですから。それは、神には、失敗はない、間違はないということですから、私の心は平安に包まれます。主よ、感謝します。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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