2021年6 月20日 ディボーション

ヨハネの黙示録19章


 黙示録の解釈については、いくつかの立場があり一致した見解はありません。しかし、これだけは一致しているというのが「主の再臨がある」ということです。その再臨に至るまでのプロセスに関しては一致しませんが、主の再臨があるという事は一致しています。

 ですから、どんなプロセスを経て再臨の時を迎えるかは、さて置いて、最も大切なことは、主に再び会うための備えをするということです。備えて生きる、それが私たちの地上での歩みの姿勢です。これに関しては、私たちは一致しているのです。


 そして、この19章が、まさに「主の再臨」を記しているのです。

 「また私は、天が開かれるのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもって裁き、戦いをされる。」(11節)


 御使いの大賛美の中、主は再び来られるのです。

 イエスは、語られました。「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」(マタイ25章13節)


 いつ、主が来られてもいいように「備えて生きる」。この真理は実際の自分の歩みにどれだけ反映されているだろうか。私にとって、「備えて生きる」とは、主を愛することだと思わされる。御使いが賛美をもって主をお迎えするように、私もこのお方を賛美をもってお迎えしたい。再臨に対してどこか怖いものだというイメージがあるだろうか。しかし、愛するお方に再び会うのが怖いなどということがあるはずがない。「愛には、恐れがありません」(1ヨハネ4章18節)と記されている通りです。

 主を愛して生きる、それが備えて生きることだと思わされます。


祈り

 天の父なる神さま。主は、再び来られます。それが私の希望であり、喜びです。主を愛して、この備えの時を過ごすことが出来ますように。私にあなたへの愛を増し加えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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