ヨブ記6章
『神が望むままに…』
人はみな、自分を生きている。それゆえ、時に葛藤を覚える。信仰者であれば、その道々によっては、ずっと信頼していた神に苦悶する。これは、「神を知っている(信じている)」がゆえに溢れてくる葛藤とも言える問いだ。
現代を生きる私たち信仰者にも多分にある、そのような神への問いがヨブ記には見事に表されている。
ここで、友人エリファズの声に、ヨブは口を開いて答える。
2節「ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が、ともに秤にかけられたらよいのに。…」
神を知っているがゆえの「どうして?」「なぜ?」という疑問は、現代も信仰者をついて止まない。時として、私たちだって近しい人とヨブと友人たちのように、「どうしてだろう?」と問うてしまっては、そのドツボにはまってしまうことだってあるかもしれない。
苦難のただ中で、ヨブの口からこの時に出た答えには心を打たれる。
「ああ、私の願いがかなえられ、私が望むものを神が下さるとよいのに。
神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を絶たれるのであれば、
それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。
私は聖なる方のことばを、拒んだことはない。」8〜10節
「ああ、私の願いがかなえられ、…」というヨブの声は、信仰を持つ者としての痛切な神への願いだ。しかし、そのあと、彼は「神が望むままに私を砕き、…」と語り出す。この状況、この現実であっても、これが神の主権のもとにあることなら、それは「容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。」と彼は答える。
「激痛の中でも喜ぶ」これは一見矛盾しているように思うが真理である。
なぜなら、主イエス・キリストの十字架こそ、まさにそれであるからだ。
主よ、私自身もこの道で、この真理にある主の道を知り得て歩むことができるように、この者を導いてください。主よ、あなたなしにはできません。私を強め導いてください。アーメン。
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