ヨブ記5章
不幸や苦しみの原因は、罪を犯した愚か者への罰である。神に歯向わず、赦しと癒しを願い求めよ、とエリファズはヨブを諭す。
「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。」(8節)
「全能者の訓戒を拒んではならない。」(17節)
「神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒してくださる。」(18節)
エリファズの発言は正しい。ただ、ヨブが愚か者だと断定するところに違和感を覚える。エリファズは、「神にゆだねよ」と言いながら、「神の義」ではなく「自分の義」にすり替えて友人をジャッジし、ヨブを慰めるのではなく戒めている。「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、自分自身でこれを知れ。」(27節)
「義」という漢字は、「我」の上に「羊」と書く。私たちの上には神の子羊なるイエス・キリストがある、という状態が「義」なのだと三浦綾子さんの本に書かれていた。「義」の基準はイエス様であるにもかかわらず、人間は「自分の義」によって主義主張を振りかざし、自分が神であるかのように人を裁き、支配したがる。
こんな話を聞いたことがある。Aさんの幼い息子が、ファミレスの駐車場で車にひかれて亡くなった。Aさんと手を繋いでいなかった息子が飛び出してしまったそうだ。Aさんは、息子をひき殺した運転手Bさんの前方不注意を責め立てた。しばらくして、今度はAさんが、ボールを追いかけて道に飛び出してきたBさんの息子を車でひき殺してしまった。Bさんが子供から目を離したせいで事故が起きたのだとAさんは弁解した。
人間はいとも簡単に、自分の立ち位置によって言動を変える。対岸の火事は他人事でも、実際に火の粉が自分に降りかかってくると大騒ぎする。もし、エリファズがヨブの立場に置かれたら、苦難の原因は、罪人である自分への懲らしめなのだと受け止められるのだろうか。さて、次章で、ヨブは何を語るのだろう・・・。
祈り:
イエス様。困苦の答えは私にはわかりません。ただ、神様はすべてを益としてくださると信じて祈ります。日々の暮らしの中で私の成すべき事に精一杯の努力を重ね、あとはあなたにお任せできる自分でいられますように。どうか、弱い私をお守りください。感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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