エズラ記10章
今日は、エズラ記の最終章となり、次回からはネヘミヤ記、エステル記と続く。この3書は、バビロン捕囚後の事柄が記されている。
エズラ記は神殿の再建、ネヘミヤ記は城壁の再建が記されている。神殿本体と城壁とどちらが先に再建されたかと言うと、神殿が先である。神殿再建の時には敵の妨害により工事が中断したことを考えると、まず城壁を再建して守りを固めてから本体である神殿を再建した方が良いと考えられなくもない。
しかし、神殿=神の住まい=神の臨在=神が共にいる、と考えると、神が共におられないのに、城壁を作っても意味がない。まず何よりも最優先は、神が共にいてくださるという確かな事実を造ることだ。この順序は、「聖霊の宮=神殿」とされた私たちにも、大切な示唆を与えてくれる。
さて10章であるが、ユダヤ人が異邦人の民を妻としたことに対する裁きが下された事が記されている。もちろん聖書が国際結婚を禁じているのではない。先祖たちは、異邦人の妻を娶ることで、その異邦の偶像の神を取り入れることになり、正しい道を踏み外して行ったのである。その事のゆえに、エズラは異邦の妻を離縁することを迫り、それを実行したのである。
エズラ達、指導者のこの判断は、もう二度と真の神に逆らってはならない、神の律法を守り従っていくのだという堅い決心に基づいている。
「『立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して実行してください。』エズラは立ち上がり…。」(4,5節)
今を生きる私たちにとっても、偶像礼拝、神の御前における罪に対しての妥協は、まるでターマイトのようにじわじわと信仰を崩していく。
どんなに強固な神殿でも、小さな粒のようなターマイトが入ったら、いつの間にか中身がスカスカになって崩壊してしまう。そのように、私たちも罪の大小にかかわらず、常に清くありたいと願う。
さて、ここで考えたいことは、エズラは、律法学者、パリサイ人の祖である。しかし、イエスの時代の両者は、偽善者と呼ばれたように実際には神から離れてしまった。
その歴史的事実から私たちは何を学ぶだろうか。どんなに純粋な思いからであっても、人間の力で神の律法を守り行おうとする時、私たちは、諦めて神から離れるか、守っている振りをする偽善者になるか、それとも、守れないという自分の罪を認めてイエスをメシヤとして受け入れるか、そこで道が分かれるのだと思う。
祈り
天の父なる神さま。私が、罪の大小にかかわらず、罪を犯すことのないように守ってください。もし罪を犯してしまった時には、迷わず直ぐに主の十字架のもとに進み出る者でありたいです。あなたの恵みによって生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
Comments