top of page

2021年5月8日 ディボーション

  • hccnichigo
  • 2021年5月8日
  • 読了時間: 2分

エズラ記 9章


『大の男が恥ずかしいと吐露する、琴線に触れる祈り』



●学んだこと:


 エズラが率いる2回目の帰還者の道中。エズラは川のほとりで断食をして、神の前でへりくだり、道中の無事を神に願い求めた。

 神に背くことがないよう警戒し、帰還者たちは無事にエルサレムに到着した。

 ところが留守中、先に帰っていた民は、母国への帰還と神殿建築の喜びにハメを外し、異国の娘と雑婚していたのだ。しかも指導者たちが率先してやっていたという、最悪の事態。

 ルートは守られたのに、肝心のゴール地点で人々は慢心した。


 エズラは茫然自失となってしまう。エズラの一人称の独白は、6節から神さまに対する罪の告白と、恥じ入るばかりの罪を吐露している。


9:6「私の神よ。私は恥じています。私の神よ。私はあなたに向かって顔をあげることを恥ずかしく思います。」


 罪の告白や反省を理路整然とするのではなく、恥ずかしいと思う感情を言わずにはいられなかったエズラ。恥の文化は日本人的には分かるが、旧約の時代の大祭司ともあろう人が、神さまの愛や哀れみを裏切ってしまったことの、心の悲しみや憔悴を打ち明けずんはいられなかった。一番弱い部分を神さまの前にさし出したエズラ。

そしてエズラを含めた「私たちの罪」として告白している。雑婚した民を断罪することなく、民に代わって額づいている。

 神の御前に立つ資格がなどないのにと、罪過だけを告白するエズラ。軽々と悔い改めの言葉など口にしないのだ。


 私は日々、神さまに対して、せいいっぱい真摯な祈りを捧げているだろうか。易々と悔い改めを口にするのは、罪を犯すよりも神さまを裏切ることになるというのに。



●祈り:


 弱き者として正直に心を注ぎだすエズラの祈りに打たれました。神さま、あなたの憐みに甘え過ぎている私がいます。イエスさまの十字架の重さを軽んじることがないよう、謙虚さを注いでください。イエスさまのお名前で感謝して祈ります。 アーメン

最新記事

すべて表示
2025年1月11日 エズラ記10章

エズラ記10章では、イスラエルの人々が神さまの教えに背いて、異邦の妻を迎えたことが問題になりました。このことで、人々は罪を悔い改め、神さまとの約束を守るために厳しい決断をします。 「エズラが神の宮の前でひれ伏して、涙ながらに祈り告白しているとき、男や女や子どもの大会衆がイス...

 
 
 
2025年1月10日 エズラ記9章

9章では雑婚により、異教徒の習慣を取り入れ偶像礼拝の罪がリーダーから起こされている。その事実に嘆き悲しむエズラの姿が映し出されている。  私も異国人と結婚したので、ドキっとした箇所である。急いで解説書を読み、異国の宗教に習い真の神を信じない事が、罪であるとの説明にとても安堵...

 
 
 
2025年1月9日 エズラ記8章

「私たちの神の御手が私たちの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から私たちを救い出してくださった。」31節(抜粋)  神の御手とはどういうことかといいますと、エズラに助け人が与えられたことと、 神の宮への奉納物である銀、金、器などの高価なものを運ぶ道中が主によって...

 
 
 

Comments


bottom of page