ネヘミヤ記 13章
『十字架こそすべて』
●学んだこと:
ネヘミヤ記の最終章になってしまった。
旧約のひとつの記、ひとつの書、新約の福音や手紙の物語が終わるたび、その書き手やできごとと歩んできた”旅路”の終わりを感じ、別れがたい寂しさを味わう。しばしの”ネヘミヤ ロス”だ。
聖書の中でも珍しく、ネヘミヤは一人称単数で語ることが多かった。といってネヘミヤは、”自我”を出す人ではなかった。肉の感情にも支配されなかった。
ネヘミヤはこの記の中でなん度もなん度も、「私の神よ、どうか、このことゆえに私を覚えてください」と、訴える。13章の中でも3回も、私を覚えてくださいと祈る。
でもこれは自我の吐露ではなく、ネヘミヤが一生懸命、主のみ言葉を実現しようと、霊的に働こうとして、うまくいかなかったときの祈りだ。神さまへの正直な報告だ。
こうした霊的な祈りを、神さまはちゃんと聞いて受け取ってくださる。ネヘミヤも、聞き届けてくださる神さまを信じきって祈る。祈りの交歓だ。
それにしても、前の12章で終わっていれば、ハッピーエンドだったのに‥‥。
イスラエルの民は、主のみ前にどれほど本気で誓いを立てても、挫折してしまう。ネヘミヤがなん度戒めようが、規定を強化しようが、過ちを犯す。
またしても旧約でくり返される罪のパターン。
私たちはつくづく、イエスさまの十字架がなければ、自分の罪を贖うことはできないのだ。
イエスさまの十字架がなければ、信仰者として生きてゆけないのだ。
●祈り:
愛する天のお父さま、イエスさまを遣わしてくださったことを感謝します。十字架にかかってくださったことを感謝します。新約の時代に生きていられることを感謝します。私の神よ、どうか私たちを覚えて、いつくしんでください。
「肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。」ローマ8:7
弱くおろかな者をあわれんでください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン
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