エズラ記 3章
エズラ記は、バビロン捕囚から70年後の出来事が記されています。神の計画により、イスラエルの民は、捕囚を解かれて祖国に帰還することが許されました。そこから祖国の再建が始まるわけですが、まず何よりも重要なのが神殿の再建です。
神殿は、ただの建物ではありません。神が臨在される場所です。ですから神殿再建は、神との関係の再建を現わしています。
3章には、その神殿の礎が完成したことが記されています。基礎工事が終わったということです。(10節)その時に、民は賛美集会を持ち、主に向かい大声で叫び賛美しました。
ただこの時、以前のソロモンによって建立された神殿を知っている老人たちは、大声を上げて泣いたのです。その涙は、嘆きの涙なのです。以前の神殿に比べたら、あまりにも小さく貧弱なのです。しかし、以前の神殿を知らない世代の者たちは、喜びにあふれて賛美しているのです。
13節には「そのため喜びの叫び声と民の泣き声を誰も区別できなかった。民が大声を上げて叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。」と記されています。
喜びの叫びと嘆きの叫びが一つになって区別ができなかったのです。これは、何を意味しているのでしょうか。
神殿の基礎工事が完成した時の、この喜びは、神の栄光の回復を感謝しての喜びです。一方で、この嘆きは、神殿の小ささ=神の栄光の小ささに対する嘆きです。
そう考えると、これら叫びは、どちらも神の栄光を求める賛美であり、嘆きなのです。ですから、一つの叫びになったのです。
私たちの内にも、常にこの喜びと嘆きがあるように思います。礼拝堂の中で神の家族と共に主を賛美しその栄光の臨在に浸り、あるいは宣教の働きを通して主を信じて救われる者が起こされ、本当に喜びが満ちあふれます。と同時に、教会の足りなさを見て、宣教の困難さを見て、この世界の痛みを見て、私たちは神の栄光を求めて嘆きます。
確かに、自分の内に、喜びと嘆きがあることが自覚できます。私たちは、喜びを通して、また嘆きを通して、主の栄光を求める者たちなのでしょう。
祈り
天の父なる神さま。私は、あなたの栄光を見て、喜び叫び賛美する者です。また同時に嘆きを持ってあなたの栄光を求める者です。今日も、ただあなたの栄光をほめたたえ、求める者でありますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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