Ⅱ歴代誌33章
ヒゼキヤ王の後を継いだのはマナセであった。彼は、父ヒゼキヤが取り壊した偶像礼拝のための祭壇や礼拝所を築き直すという事を行った。主のことばを退け、しかも神の宮の中に偶像の彫像を安置するという暴挙まで行った。
そのために主の裁きがくだったという、これまでも繰り返されているパターンである。しかし、マナセは、ここで悔い改めたのだ。
「しかし、彼は苦しみの中で彼の神、主い嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、主こそ神であることを知った。」(12,13)
へりくだって悔い改めることができるかどうかが、道の分かれ目となる。真の神を捨て、偶像を拝んだということは、まぎれもない「罪」である。もちろん、罪を犯さないことが一番だが、大切なのは、罪を犯してしまったときに、どうするかである。
開き直る、誤魔化す、隠れる、言い訳をする、責任を転嫁する‥‥。それとも「大いにへりくだって」神に祈るかどうか。
マナセは、「苦しい時の神頼み」であったと思う。都合が良いと言えばその通りだ。しかし、神に求めたのである。そのような者の求めを「神は聞き入れて」くださったのだ。
大切なことは、主の目に「罪」を犯した時に、どんな時でも、どんな自分でも、とにかく「神に求める」ことなんだと思う。そこが、もっとも大切な選択の時であり、どの道を選ぶかで、その後がまったく違ってくる。
「神に求める」選択をするなら、そこに至った道がどうであったとしても、主は、その後の道を祝福に変えてくださるのだ。
そして「主こそ、神であることを知る」とあるように、罪を見逃さない聖なる神である方が、どこまでも罪人を愛し、救ってくださる神であること、そのために御子を十字架にまでかけてくださったお方であるという、真の神のお姿を知ることになるのだ。
語られたこと:
とにもかくにも、「神を求める」ことだ。良い時も悪い時も、どんな時でも、どんな自分であっても、そのままの自分で神を求める者でありたい。
祈り:
天の父なる神さま。私が主の目に良いことをする自分でありますように。もし主の目に悪を行ってしまったら、へりくだって主よ、あなたに求める者でありますように。そしてもっともっと主よ、あなたを知ることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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