Ⅱペテロ2章
「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。」(2:1)
キリスト教信仰というものは、内から外から、常に攻撃の対象とされてきた。ペテロが記した偽教師とは、教会の内から生じてきたものだ。
教会の草創期に、すでに偽教師が起こり、様々な間違った教えが説かれていた。それに惑わされる者も相当数いたと思われる。その状況を背景として、このペテロの手紙が書かれている。
今の時代も同じで、外から、つまりキリスト教徒ではない者がキリスト教を否定しようとする動きは常にある。また内から、つまりクリスチャンだと言いながら、実体はまったく違う、いわゆる異端というものが数多く起こっている。
実際に、日本の教会でもそのような異端から、身分を隠して巧妙に教会に入ってくる者たちがいる。気づいたら、いつの間にか多くの信徒が連れられて異端に行ってしまったという事例がある。
外からの攻撃の場合には、キリスト教を否定することは、聖書を否定することなので、そこを突いてくる。しかし教会は、約2千年に亘ってその試みによって鍛えられ、聖書が神のことばであることを保持してくることが出来た。
内からの攻撃の場合には、聖書の解釈が問題となる。聖書は、神のことばだと言いながら「勝手な解釈」(1:20)をして、自分たちの都合の良いように真理を歪めてしまう。これは厄介だ。
このような攻撃があるという現実がある。だからこそ、私たちは、聖書を正しく理解することを求めていきたい。聖書が、歴史の中でどのように解釈され、その結果どのような実が結ばれてきたのかを歴史から学ぶことが出来る。また、常に聖書の学びを継続することで、神学校に行かなくても、ある程度の解釈の基本は身に着けることは出来る。
さらに大切なことは、天の父との人格的関係をより深く持つことだ。聖書に対する知識と同時に、霊的感覚も大事だ。「なんか、納得させられるような論理だけれども、何かしっくりこない、なんかおかしい」という霊的感覚だ。
ただし、知識は、より説得力のある知識によって納得させられてしまう危うさがあり、また霊的感覚もあくまで感覚ならではの危うさがある。
だからこそ、知識と霊的感覚の両方を求めていきたい。聖書の学びと同時に、天の父との人格的交わりを大切にしていきたい。
そして、御言葉の真理に堅く立ち続ける者でありたいと願う。
祈り
天の父なる神さま。偽教師が闊歩している時代です。どうか私たちが、御言葉の真理に堅く立って歩むことができますように。あなたの御言葉に対する正しい知識と、聖霊による導きを豊かにお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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