詩篇第四巻 98篇
「主は奇(くす)しいみわざを行われた。」(1節)
昨晩大雨が降った。冬はハワイの雨季。いつもは乾燥して茶色のダイアモンドヘッドも緑色のグリーン・ダイアモンドヘッドになる。私はこの緑濃い山が大好きだ。しかし海抜0メートル地点に住んでいる我が家は気が気ではない。案の定、近所の川は溢れ、隣接する公園に大きなドブのような池が登場していた。それを見ながら日曜日の説教の話を思い出した。
『あなたの内から永遠の命に至る泉が湧き上がっているのです』
「主の奇しいみわざ」によってバビロン捕囚から解放された筆者。その喜びを歌う詩篇。長年の捕囚の間に、私たちの主を蔑むような言葉を異国の人々から浴びせられ何度となく心が折れそうになっている。その様は、これまでの詩篇に沢山表現されている。まさに、清水湧き出る場所がドブの水で汚染されるかの如く、心も汚染されそうになった事だろう。しかしそんな弱い私の心の中に主はいつも新しい清水を注いでくださる。
それは主の愛。永遠の命に至る泉の水。その水が枯れることはない。いつも私に注がれる。それを日々感じ取れるようになった事を感謝せずにはいられない。筆者が救われた時に賛美したこの歌の喜びの意味が分かる。
ルカの福音書1章のマリア賛歌とこの詩篇が共通しているところから、98篇は旧約のマリア賛歌と呼ばれているらしい。(ちいろば牧師の一日一章より、榎本保郎著)
「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑い はしために目を留めてくださったからです。」(ルカ1:46~48)
マリアの謙遜さに心打たれる。
どこの馬の骨か分からない私に、主が目を留めてくださり愛を注いでくださっている事じたい奇しき主の御技。礼拝に参加して主の臨在の中で癒される日曜日。朝に、夕に、主の御言葉から愛をいただく幸せ。それを噛み締めることができるようになった事、そこまで主が辛抱強く待ち、導いて下さった事に感謝せずにはいられない。
祈り
「だれでも私を愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)
天の父なる神様。あなたが毎日注いでくださる愛の水を感謝して受け取ります。どうぞいつも私と一緒に住んでください。心が折れそうな時にはどうぞ叱咤激励してください。あなたの愛によって、今日も生かされている事に感謝します。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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